敗戦後、19歳だった清水信次は三重県の家族の疎開先に戻った。だが、そこはわずか6畳の養蚕部屋。その小さな部屋に両親と弟妹の計6人が暮らしていた。家族は食べ物も寝床もままならない状態で、「自分が稼がないと死んでしまう」。何の当てもないまま、翌朝一番の汽車で大阪へ出掛けた。

ライフコーポレーション 会長兼CEO 清水信次
しみず・のぶつぐ●1926年生まれ。56年清水実業を設立。日本チェーンストア協会会長も務める(撮影:今井康一)

大阪は見渡すかぎりの焼け野原だったが、もう闇市が立ち、食べ物や古着が飛ぶように売れる。清水も復員するときに支給された飯ごうや毛布、水筒などを売って当面の資金を作った。「案外いい値段で売れた。モノさえあれば売れるのではないか」。そう考えた清水は、闇市で商売を始めた。それしか方法がなかったというのが本当のところだ。

伊藤さんも中内さんも闇市で売っていたよ

田舎に行って何でも仕入れた。和歌山の串本や三重の鳥羽では鮮魚や乾燥魚を手に入れ、桜エビも買った。それらを大阪や京都に運ぶと、案の定、高い値段で売れた。

「イトーヨーカ堂の伊藤(雅俊)さんだって、東京の北千住でメリヤスの肌着を買って闇市で売っていたよ。ダイエーの中内(功)さんも三宮の闇市で薬を売っていたしね」。イオン(旧ジャスコ)創業者の岡田卓也も含めて、同じような発想で商売を始めていた。ただ、闇商売には警察が目を光らせていて、清水も捕まった。いずれ闇市からは足を洗わなければならなかった。清水は手元の資金を頼りに、家業の「清水商店」の再建に着手した。