褐色の屋根に白く塗られた壁を持つシンガポール国会議事堂。リー・クアンユーの遺体はここに安置され、国民の弔問を受けた。7時間、10時間待ちとメディアが知らせても、死後4日間の弔問期間中、45万の市民が長蛇の列をつくり建国の父に別れを告げた。

世界の誰もが、彼の実績を評価する。1965年当時の1人当たり国民所得は500ドル。その後、50年で5万ドル超という先進国レベルに引き上げたのは、まさしくリーの政治手腕の賜物だ。

英国植民地だったシンガポールに生まれ、「英国の支配は半永久的に続く」と信じていたリー。だが42年から3年半続いた日本の軍政で、考えが一変する。「日本であれ英国であれ、われわれを圧迫したり痛めつけたりする権利は誰にもないのだという決意を持った」。軍政によって政治と権力の持つ意味を痛感したリーの関心は、政治へと向かった。

リーは自他共に認める現実主義者だ。政治家になった彼の行動の原点は、すべて現実を見据えたうえでのものだった。無資源・少人口という都市国家の現実。60年代の共産系勢力との権力闘争。政治生命を懸けて進めたマレーシア連邦参加を拒んだマレー人の民族主義者との対立。さらに、政治的自由を掲げ彼に反発した自由主義者の存在。「共産主義、民族主義、自由主義を認めない。政治家リーの中身はこれがすべてだった」と拓殖大学国際学部教授の岩崎育夫は言う。