名奉行といわれた大岡越前守忠相が江戸町奉行の頃、豆腐の値段で騒ぎになったことがある。

江戸時代の諸物価はすべてその年の米価にリンクさせていた。つまり米価を基軸にしてほかの物価を定めるのだ。このやり方を「米経済」という。大岡を伊勢山田奉行から江戸町奉行に登用したのは、8代将軍吉宗で、前は紀州(和歌山県)藩主だった。幕威を回復するために「享保の改革」を展開した。人口を増やすためにコメの増反を図った。関東地方でこの責任者を命ぜられたのが大岡だ。

本来ならコメの生産は、コメ即年貢(主税)だから勘定所(財務省)の所管になる。それをあえて町奉行の大岡に命じたのは、吉宗はよほど大岡の能力の多面性を買っていたのだろう。大岡は期待に応え、農業のエキスパートを幕府役人とし(田中丘隅や簑笠之助、青木昆陽など)、その能力を発揮させた。

新田開発もそれまでの"伊奈流”を改めて"紀州流”を導入した。首都圏内で"ナニナニ新田”と呼ばれる地名は、この頃開かれた新水田だ。埼玉県の見沼新田(用水)はその代表的なものである。

コメの生産量が増えた。いきおい米価が下落し始めた。しかしリンクするはずの諸色(諸物価)は下がらない。結局「米安の諸色高」という状況になってしまった。吉宗の命により大岡は江戸の諸業者に「物価引き下げ令」を発した。しかし、特に豆腐屋は原料の大豆は仕入れ値が2分の1近く安くなっているのに、値下げに応じない。大岡は豆腐業者を全員呼び出し、値下げを命じた。大部分は従ったが、7軒だけは承知しない。大岡はやむをえずその7軒を罰した。

ところが、値下げはしたものの、豆腐の大きさで対抗する者もいた。つまり豆腐の大きさを半分にしてしまったのである。「コメの値が下がったのだから、ほかの物価も安くしろ」という幕府の改革に、不条理なものを感じていたのかもしれない。大岡が小さくなった豆腐を元の大きさに戻せと言ったかどうかは、私も勉強不足で知らない。でも、言わないほうが名奉行だと思っている。