近衛文麿が推進し、全国民を戦争協力への動員を目指した「新体制運動」は大政翼賛会として結実する。総理大臣を総裁とし、地方の末端まで貫通する上意下達機関だった(朝日新聞社/時事)

2015年は戦後70年の節目となる。日本経済の繁栄とともに当時の記憶も薄れつつある。世界恐慌がもたらした経済・社会状況から再度の世界大戦へと続く過程を、この節目の年に振り返ってみる。当時の経済状況を知っておくのも悪くはないだろう。

自由な経済活動を縛る統制経済が始まったのは1937年(昭和12年)の日中戦争開戦からといえる。大命降下を受けて発足した第1次近衛文麿内閣は臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法を公布し、直接的な統制を始める。

38年には企画院が物資動員計画を策定、軍事優先で物資の調達を図ることで自由経済を縛り上げていく。同年には国家総動員法も成立、経済や国民生活を政府が勅令で統制できるようになった。

「ぜいたくは敵だ!」「ほしがりません、勝つまでは」といったスローガンとともに一般国民の消費を抑制し始めたのもこの頃。40年には砂糖・マッチなどの切符制が、そしてコメの配給制が始まり、国民生活を犠牲にする政策が実施された。

1940年に砂糖やマッチなどが切符制に、そして41年、主食のコメも配給制となる。「ぜいたくは敵だ!」という言葉とともに統制経済が強まっていく契機となった(毎日新聞社/時事)

40年にはまた米穀供出制が実施され、政府によるコメの強制買い上げが始まった。小作料を制限して生産者米価を優遇する政策も出されたが、労働力や生産資材の不足がそれを上回り、食糧難へとつながる。