歴史から消えた天才精神科医 脳科学の限界を決めるのは誰
評者/サイエンスライター 佐藤健太郎

『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク 著/赤根洋子 訳/仲野 徹 解説(書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします)
[Profile] Lone Frank 神経生物学の博士号を持つ、デンマークを代表するサイエンスジャーナリスト。『サイエンス』『ネイチャー』や欧州の有力紙に寄稿する傍ら、コメンテーターや制作者としてデンマークのテレビ、ラジオでも活躍している。

「脳科学」とつく本や記事には、残念ながら眉唾ものも多い。本書も一見怪しげな題名だが、内容の方は圧巻というべきであり、ぜひ一読をおすすめしたい。

本書の主役は、ロバート・ヒースという精神科医だ。カリスマ的で野心と才能にあふれ、関わった人々を魅了せずにおかない人物だったという。

彼が1972年に発表した「同性愛者の治療」という、衝撃的な実験の様子から本書は始まる。脳に電極を挿した男性同性愛者に、電気刺激で快感を与えながら娼婦と性行為をさせるという、まさに冒涜的な研究だ。現在はもちろん、当時の倫理基準からも大いに問題のある研究が、堂々と行なわれたことに慄然(りつぜん)とする。

だがヒースは、単なるマッドサイエンティストなどでは決してない。精神疾患の多くは脳の機能的な問題であり、外科的に治療可能という彼の信念は、時代を大きく先取りしたものだった。

本書ではヒースの物語と並行して、近年行なわれている脳深部の電気刺激療法についても詳述されている。その進歩は驚異的で、うつ病や統合失調症の改善の他、認知機能の向上といった成果も出てきている。これらはすべて、ヒースの先駆的なアイディアの延長線上にあるといっていい。

だがヒースの名は一般には知られておらず、現代の学界でもほとんど無視されている。なぜ彼の名は消されたのか──その謎を追うのが本書の柱だが、これは読者ご自身で読んでいただくべきだろう。

結局のところヒースは、並外れた自信と洞察力を持つがゆえに先走りすぎ、時代に受け入れられなかった悲劇の天才──ではあるのだろう。科学の進歩には彼のような人物が必要ではあるが、時に暴走して巨大な悲劇をも招きかねない。彼のような存在をどう扱うかは、いつの時代でも大きなテーマに違いない。

それにしても、脳という器官の不思議さ、奥深さには圧倒される。電気刺激のスイッチひとつで、手のつけようのなかった暴力行為が治まったり、音楽の趣味が一変したりすると聞くと、性格とは、自分とはいったい何だろうと思わずにはいられない。

研究の進展により、記憶力増強や脳の若返り、人格の改善さえも、実現の可能性が見えてきているという。しかしわれわれは脳を、人間をどこまで「改良」してよいのか、そしてそれを誰が決めるのか。近年の生命科学の進歩は、「人類は神になる準備ができているのか」という問いを突きつけるところまで来ている。考えることの多い1冊だ。