英オックスフォード大学教授 苅谷剛彦(かりや・たけひこ)1955年生まれ。米ノースウェスタン大学大学院博士課程修了、博士(社会学)。東京大学大学院教育学研究科助教授、同教授を経て2008年から現職。著書に『階層化日本と教育危機』『増補 教育の世紀:大衆教育社会の源流』『教育と平等』など。(撮影:尾形文繁)

スペイン風邪と呼ばれた100年前の世界的なインフルエンザ大流行後の1922年、内務省衛生局(当時)が『流行性感冒』と題する報告書を刊行した。世界中で4000万人が死亡したといわれるこの感染症に、日本を含め世界がどのように対応したかを克明に記録したリポートである。

当時の科学は、まだウイルスの存在を知らなかった。それでも、細菌学を基礎とする主流派の学説に基づき、ワクチンが開発・使用されもした。他方、陶器製の細菌濾過器を通過しても何らかの病原体が残ることを根拠に「濾過性病原体」説に立つ学派もあり、患者から発見された菌は真の病原体ではなく「2次的侵入者」だとした。

報告書は主要国で両派の学問的な論争があったことを詳細に紹介しつつ、主流派が唱えた細菌説については、「真正の病原体」であるとは立証されておらず、「未だ確実たる論定なきものなり」と結論づけた。主流派におもねることなく、断定を避けた記述には、学問への謙虚ささえ感じられる。