美化される戦争の記憶、その仕組みを緻密に実証
評者/福井県立大学名誉教授 中沢孝夫

『戦後日本、記憶の力学 「継承という断絶」と無難さの政治学』福間 良明著(書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします)
[Profile] ふくま・よしあき 1969年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。出版社勤務、香川大学准教授を経て、立命館大学産業社会学部教授。専攻は歴史社会学・メディア史。『「勤労青年」の教養文化史』など著書多数。

死者は生者の記憶の中に存在するが、その記憶は生者に都合よく書き換えられることがよくわかる本だ。特に集団の記憶はそのようだ。戦後75年、戦争の現実を知る人が減り、語り部自体が継承されるようになると、語られる中身の変容を招く。

靖国神社、千鳥ヶ淵、広島、長崎、摩文仁(まぶに)、知覧そして各種の慰霊祭など「記憶の場」の誕生から変容をたどり、かつ映画や小説、各時代の代表的言論を点検しつつ、「記憶の力学」を綿密に実証する。

例えば、知覧の特攻出撃に関する“記憶の作られ方”は、死者たちを美化し、「志願を強いた」軍の組織的暴力を不問に付すものだった。事実を明らかにすると、特攻隊員の死が、神聖どころか無駄だったことがはっきりするのだ。集団の記憶に大切なのは無難さであり、組織犯罪とその中心人物の明確化ではない。

あるいは「平和主義者の独善」としての原水禁世界大会。また、いずれも市民の反対の声を押し切った原爆ドームの保存や被災した浦上天主堂の解体の経過などを読んでいると、反戦や平和を語る人たちは、なんとまあ多くの事実を抽象化していることか。

鶴見俊輔は反戦の聖典とも言える戦没学徒遺稿集『きけわだつみのこえ』に関して、太平洋戦争前の「平和」な時代に、日本が朝鮮、台湾、満州を不当に支配していたことや、国民へ屈従を強いる支配層の加害責任に学徒らが触れないことへの違和感を、政府の命令に背かなかった自分への悔恨とともに語っているが、こうした考えは集団の記憶から排除される。戦場でのグロテスクな死とそれを強いた暴力の仕組みは消去され、靖国神社のような死者への鎮魂の祈りへと集約される。

もちろん、現代の価値規範で過去を語るとき、過去の当事者になりかわるのはとても難しい。ベ平連の吉川勇一は「あたかも自分が在日朝鮮人や被差別部落民の立場に立ちえたかのように、他の人びとへの告発や糾弾を開始する傾向」と指摘しているが、たしかに当事者の屈託を知らない者は危険である。

かつて社会党・総評ブロックに所属していた評者は、平和を語ることで自分を輝かすことに熱心な知識人・文化人をたくさん見てきた。評者自身、原水禁世界大会で出張し、飲み食いするのが楽しかったことを隠すつもりはない。平和運動さまさまだった。

われわれは「継承」の美名の下、実は見るべきものから目を背け「風化」と「断絶」を進行させがちであることを明瞭に描いた傑作である。