昨年12月24日に訪問した際の李登輝総統

7月30日、19時30分(日本時間20時30分)、李登輝総統が逝った。享年97。

李登輝基金会の最高顧問を務める筆者が最後にお会いしたのは、7カ月前の昨年12月24日。その折、私が「立派な台湾という国にされましたね」というと、総統は、「まだまだだよ」と私の顔を見つめながら、そう言った。台湾のこれからに、なお心憂うる、そのひと言に感動を覚えざるを得なかった。随伴していた3人の人たちも感激して、私と総統の会話を聞いていた。

おそらく、李登輝総統に会い、話した、最後の日本人だと思う。秘書からの訃報の知らせは、20時であった。予想していたとはいえ、涙が止まらなかった。

李登輝総統を訪ねること50数回

「元総統」と書くべきところであるが、ここでは「李登輝総統」と書かせていただく。

李登輝総統とのお付き合いの始まりは、昭和62年(1987年)、台湾に故・堺屋太一先生と講演旅行をした折のこと。当時64歳の李登輝副総統を、講演会主催者から紹介され、それをきっかけに、以降34年近くの交流を深めることになった。

その2年後に蒋経国総統の死去に伴い、李登輝副総統は総統になったが、交流は、以前にも増して濃密になり、結局、今日まで、李登輝総統を訪ねること50数回に及ぶこととなった。こちらから、申し込むこともあったが、総統から、直接、電話で、来てくれという連絡もあった。

「台湾の主張」は日本で20万部、台湾で100万部のヒットになった

1999年、私が企画して出版した李登輝著『台湾の主張』(PHP研究所)は、日本国内のみならず、世界中の話題となった。その功績によるものか、総統として最後の年、李登輝総統から、紫色大綬景星勲章を受章した。総統府で実際に、李登輝総統から、直接、勲章をかけてもらったときは、感激し感動した。

総統とは、なにか、分からぬが、よく、話が合った。総統は、話し始めると、とどまることがなかった。台湾のアイデンティティ(identity)とか、台湾国内の政治、あるいは、日本の政府に対する注文、台湾と日本の関係、中国、アメリカ、東アジアなどという政治問題だけでなく、生きるとはなにか、信仰とはなにかなど、哲学や思想について教えられ、また、議論した。

当時、中年の日本人女性が、日本関係の総統秘書を務めていた。彼女が、「総統は、江口さんと話をしているときは、特別に嬉しそうに話をされますよ」と言い、「でも、よく、総統の話の途中で、江口さんご自身の考えを言われますねえ。大抵、日本からのお客さまは、政治家の先生でも、評論家の方々でも、ただただ、総統のお話に相槌を打たれるだけです。なかには、総統の前で、正座され、ご挨拶される日本の女性評論家の方もおられますよ」と、いささかあきれ顔をして驚いていた。

私は、機関銃のように発言される李登輝総統に対して、「いや、それについては、私は……」と、総統が話をされている途中でも、委細構わず、自分の意見、感想を言う。総統は、そういうとき怒るどころか、私の話をよく聞いてくれた。だから2人の会話は当然、時間が長くなる。

「自主自立」「独立独歩」「無私」

毎回、だいたい午後3時にお訪ねして、語り合うこと午後8時、9時は普通で、10時になることもしばしばであった。6時頃になると、総統から「江口さん、食事に行こう」と、街中のレストランに出掛け、そこでも、先ほどまでの話の続きをしたりした。そういう会話のなかで、李登輝総統から、ニイチェの「永遠回帰の指輪」とか、カーライルの「永遠の肯定」(『衣装哲学』)とか、「メメント・モリ(自分が、必ず死ぬことを忘れるな)」という言葉の解説を聞かされ、非常に興味深く、共鳴することが多かった。

そういうことで、2人で愉快に34年間、話し合うことが出来たのは、おそらく2人の会話の根底に、レベルの落差こそあれ、「自主自立」「独立独歩」「無私」という価値観が流れていたからだと思い、自負している。

そのようなお付き合いの流れで、李登輝総統自身の著作を、日本で発刊しようと思い始めたわけである。

そこで、李登輝総統に話をすると、「いいよ。けど、江口さんは大丈夫か」と訊かれた。総統が、どうしてそのような問いを私にしたかというと、李登輝総統が、台湾は台湾、中国の一地域でもないと発言していたためだ。

台湾と中国は、いわば「特殊な国と国の関係」であると発言をし、強力なリーダーシップで、台湾国家をリードしていた。当然、台湾は中国の領土であるとする北京政府からは、「危険人物」とみなされていたので、当時、日本のマスコミは、李登輝総統の著作を発刊することは、自社に中国からの圧力、嫌がらせがあると考えていた。

しかし、私は、この20世紀後半の、世界に誇る哲人政治家の著作を日本で出すことは、世界各国にも、独立国家・台湾を知らしめ、意義があることだと思った。とは言え、中国からの、クレームは明らかだし、まして、PHP研究所と同じく松下幸之助さんが創業した松下電器産業(現在のパナソニック)は中国に29の工場を出していた。中国からだけではなく、身近な松下電器からも中傷が入るだろうことは、明確である。

中国からの抗議を回避するための「戦略」

そこで、私は次のようなことを行った。李登輝総統の著作を出すにあたって、中国、韓国、日本、台湾にも、同タイトルの書籍を出す、という企画趣旨にしたのである。すなわち「中国の主張」、「韓国の主張」、「日本の主張」、「台湾の主張」をそれぞれに出したいということである。李登輝総統宛に依頼状は出さなかったが、中国大使館を通して、時の首相朱鎔基宛に、韓国大使館を通して、時の大統領金大中宛に依頼状を出した。

もちろん、中国から、韓国から、承諾の返事が来ることは、まったく考えもしないし、期待していないどころか、むしろ、承諾してもらっては困る。思いは李登輝総統だけであったからだ。ただし、「日本の主張」は、元首相・中曽根康弘宛に出して、承諾をもらった。しかし、すでに、『日本の主張』として、1954年出版されていたから、『二十一世紀日本の国家戦略』という題名で、出版した。

朱鎔基と金大中から返事が来ないのを幸いとして、李登輝著『台湾の主張』を出版した。その詳細については、後述するが、1999年6月に出版すると、案の定、中国大使館から、どうして出版したのか、こういう出版は控えるべきだとクレームが入った。

その電話で私は逆襲をした。あなたの国の朱鎔基首相にも書いてくださいというお願い状を、大使館に届けているではないか。それを大使館で握りつぶしたのか、朱鎔基首相が拒否したのか分からないが、なんの返事もなかったではないか、返事がなかったのは、どういうことなのか。実に失礼ではないか、と、強い口調で言うと、いろいろと言い訳じみたことを言いながら、大使館側が電話を切った。

北京政府のブラックリストに

それまで、中国社会科学院(中国政府のシンクタンク)から招待状が来て、数回、訪中していた。北京大学、精華大学、南開大学、中国電気通信大学などで講演、講義するだけでなく、経済団体などでも講演していたが、まったく招待状は来なくなった。

もともと、訪中で愉快なことはなかった。例えば、北京政府の高官の主催での懇親会のときでも、「日本のほうが、わが中国よりも社会主義ですねえ」などと言う。日本の官僚制を指していることは明らかだが、そのひと言に対して、私は、「ということは、中国よりも日本が進んでいる、あるいは好ましいと憧れておられるわけですね」と返すと、それから、その高官は私に話しかけることはなかった。

南開大学の学長も、私を講義に招いておいて、戦争中、日本軍に、この辺りで残虐のことが行われたと話す。「そういうことが事実かもしれませんが、残虐な行為をされるほど、中国軍は力が弱く、また、民度も低かったんですね」と言ったら、学長は、あからさまに不快な表情で、黙り込んでしまったこともあった。

いずれにしても、中国大使館から、抗議めいた電話があって以降、中国社会科学院からの正式な招待状は来なくなったが、こちらから行きたい国でもない、行けば不愉快な国だから、以降、中国には一度も行ったことはない。余談ではあるが2001年頃、訪日した評論家が、私のところにたまたま訪ねてきた際に次のようなことを聞いたことがある。「びっくりしました。北京政府のブラックリストに、石原慎太郎さんと江口さんの名前が載っているそうです」。それに対し、「大変光栄です」と応じたものである。招待状が、来なくなったのは、けだし当然のことである。