人・物・情報が全地球規模で頻繁に行き交う現代、私たちは従来の生活感覚では扱いきれない状況にさらされている。それをまざまざと突きつけられたのが、新型コロナウイルスの大流行だ。

始まりは局所的だが、瞬くうちに世界中へ感染症が広がる。小松左京『復活の日』では、新種の生物兵器MM-八八がアルプス山中で漏洩し、まずイタリアで死者が発生。1カ月のうちに日本や米国にも飛び火するが、当初はインフルエンザと見なされ、誰もが軽く考えていた。

『復活の日』ではパンデミックに続き、核爆弾が発射される(書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします)

しかし、感染力と致死率はすさまじく、経済と都市機能は完全にマヒしてしまう。感染を免れたのは、南極の観測隊員と、潜航中だった英国とソ連の原子力潜水艦の乗組員だけだ。人類の未来を託された彼らは、食糧自給、エネルギー確保、子孫存続計画(女性はわずか16人だけ)……新しい社会を一歩ずつ築かねばならない。

言うまでもないが、SFは未来予測ではないし、危機対応マニュアルでもない。描かれた事柄が後に実現したとしても作品価値の証明にはならないし、そもそも作者は「予測確度」を目指してSFを書くのではない(作中の信憑性さえ確保すれば事足りる)。SFに限らず、フィクションとはそういうものだ。

日本を代表するSF作家、小松左京(1931-2011)。『復活の日』で描かれる人類再生の姿は、小松作品を貫く希望である(共同通信)

だからといってフィクションが無効だということではない。フィクションが扱うのは個別の出来事だが、例えば人類破滅を描くSFにしても、作品ごとに危機の原因や取り巻く状況は異なる。その個別を通じ、読者一人ひとりが普遍の理(ことわり)に触れる。そこに、暇潰しを超えた、小説を読む意義がある。SFにおいてその意義とは、「既成概念への疑義」「多角的な発想」「未曾有の状況への想像力」などである。

冷戦時代の傑作

『復活の日』は東西冷戦の最中に書かれた。南極に残った人々はイデオロギーの違いを超えた団結を得る。しかし、冷戦が残した全自動報復装置(基地に異変があれば複数の敵拠点に向け核ミサイルを発射する)が、新たな脅威をもたらす。物語終盤は、報復装置の解除のための決死行だ。

同じく冷戦を背景にした作品に、ネヴィル・シュート『渚にて』がある。ここで破滅をもたらすのは、核兵器由来の放射能汚染である。北半球は全滅し、死の灰は赤道を越えて、オーストラリアへと迫りつつあった。この物語では、社会秩序が失われることはない。ほとんどの市民は迫りくる最期を従容として受け入れ、戦争前とほぼ変わらない生活を営み、ルールを守り続ける。静かな終末の情景がそこにある。