1877年ごろに撮影された、三菱幹部の集合写真。前列左から2番目が、創業者の岩崎彌太郎。後列右から2番目が、彌太郎の弟で2代目社長となる彌之助。後列右端に三菱の近代化を進めた荘田平五郎(関連記事参照)の姿も(提供:三菱史料館)

「寛彌(ひろや)とは結構親しくてね。土佐の彌太郎の血を引き継いだせいか、酒にも強くて。酔って目が据わってくると、怖いから逃げるんです(笑)。でも、財閥家の当主として帝王学を受けて育った魅力的な人でした。仕事ではキレ者ぶりを発揮し、もし一国一城の主だったら、必ず何事かを成し遂げていたと思いますよ」

2018年に亡くなった、古河財閥創業家5代目当主の古河潤之助氏から、かつてそう聞いたことがある。岩崎彌太郎直系の本家当主で、元三菱銀行取締役の岩崎寛彌氏は、08年に死去している。生前は、酒好きとして知られ、夕方から丸の内の東京会館のバーや、湯島の居酒屋「シンスケ」でゆっくり酒をたしなむことを常としていた。

同じ財閥家の当主同士、寛彌氏と親しい交流があった古河氏は、三菱における創業家の役割についてこう語った。「三井や住友は番頭がよかったから、必然的に当主の力が弱くなった。三菱は岩崎さんが財閥解体直前まで第一線で仕事をしてきたから、今もグループの団結力があるのです」。

創業家4代が陣頭指揮

三井、住友がともに幕末維新の段階で200年以上の歴史を持つ伝統的な富豪だったのに対し、三菱は岩崎彌太郎が徒手空拳で成り上がり、海運で基礎をつくった新興財閥だ。その点、ほかの2財閥家が実際の経営にはほとんど関与せず「番頭経営」に徹したのに対し、三菱は本家と分家が交代で社長を出し、4世代、75年にわたって経営を主導してきた。

2代目・彌之助と3代目・久彌は米国、4代目・小彌太は英国と、20代で海外留学を経験した(提供:三菱史料館)