江戸時代に在位した天皇は後陽成(ごようぜい)から明治まで16人いるが、皇位継承は順調ではなく、明正(めいしょう)・後桜町(ごさくらまち)の女性天皇2人、閑院宮(かんいんのみや)家の王子から養子になった光格天皇など、やっとのことで皇位をつないできた。生前譲位が常態の江戸時代、譲位は幕府の許可制であり、在位中に死去すると後継の決定も幕府の承認が必要で、皇位継承すら幕府の許可が必要だった。また江戸時代、天皇に残された権限といわれた①官位授与、②改元、③暦作成も、武家官位は将軍の決定を認証するだけ、改元は朝廷が出した候補のうちから幕府が決定、暦は実質的に幕府天文方(てんもんがた)が作成など、いずれも幕府が権限を握っていた。すなわち、「すべて武家が取り仕切る世」(後水尾(ごみずのお)天皇)だったのである。

光格天皇(1771〜1840年)傍系の閑院宮の出身。中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心だった(泉涌寺所蔵)

しかし天皇は、①徳川家当主を征夷大将軍に任命、②徳川家康に東照大権現号を授与して神格化し、東照宮へ勅使を派遣して荘厳化、③将軍死後の院号の選定、④将軍の決定とはいえ諸大名を格付けする官位授与など固有の権能を持ち、将軍・幕府にとって不可欠の存在であり続けた。

18世紀に入ると天皇、上皇の若死にが続き、皇位継承は綱渡りのようになった。桜町上皇が1750年に31歳で亡くなったとき、桃園(ももぞの)天皇はまだ10歳だった。その桃園が22歳で亡くなり後継皇子は当時5歳で病弱だったため、桃園の姉である後桜町が皇位についた。ある公家はこの異例の継承を王道の衰退と憤慨した(「嗚呼末代王道衰弊(ああまつだいおうどうすいへい)の時」『定晴(さだはる)卿記』)。