深圳市の一角にある鄧小平のパネル。経済だけでなく教育の礎も作った人物だ(撮影:今井康一)

2018年、中国は改革開放政策40周年を迎えた。目覚ましい経済成長は、同政策が脱農と工業化を40年かけて推進した結果であり、そこに奇術などはない。そして教育・技術水準の向上も、約40年にわたる政策の成果である。先進国に追いつき、世界最高の頭脳を集めるために中国が歩んできた道のりを紹介する。

失敗の直視

飛躍的に発展する中国経済は、改革開放の総設計師・鄧小平(1904~97年)がその礎を築いた。社会主義を維持しながら、資本主義の活力を接ぎ木するという大胆な政策は、今でも中国の強さの原点だ。この鄧が経済発展に欠かせないとして重視したのが、教育だった。

「中国の科学技術・教育は、先進国から20年遅れている。科学者は米国に120万人、ソ連に90万人もいるのに、中国には20万人しかいない。しかも体を壊した者などを除くと、本当に役に立つ人材は少ない」。これは鄧の77年の発言だ。同年に文化大革命が終結し、鄧は政治失脚から復活した。そこで直視せざるをえなかったのは、文革の10年がもたらした“知の焼け野原”と呼ぶべき惨状だ。

全国の大学教職員は反動分子として厳しく弾圧され、生き残っていても心身に大きな傷を負った知識人が少なくなかった。大学そのものも運営停止に追い込まれたり、資料や研究設備といった学術インフラが破壊されたりした。若い世代は系統的に知識や技術を学ぶ経験が欠落していた。

しかもこの時期、科学技術は目覚ましく進歩した。人類史上初の月面着陸が実現(69年)し、インターネットの原型であるARPANETが誕生(同)。米インテルがマイクロプロセッサー・4004を発表(71年)し、コンピューターが爆発的な進化を始める。科学技術が国力を決定づける時代に、中国は致命的に出遅れたのだ。