
人は神なき社会で自己犠牲をなしうるか
評者 BNPパリバ証券経済調査本部長 河野龍太郎
著者は、精力的な執筆活動で、財政健全化の必要性を粘り強く論じる経済学者だ。今回は財政健全化が進まない理由を政治思想の領域まで掘り下げた。ロールズやハイエク、ポーコックなどの思想を手がかりに、財政健全化を可能とする政治哲学を模索する。
自発的に誰かが犠牲になれば残り全員が助かるが、誰も自己犠牲を選択しなければ全員死ぬというタイプの問題を、ライフボートジレンマと定義する。かつては全体のための個の犠牲を可能にしたのが伝統社会や宗教の規律だった。リベラリズムを前提とする現代民主制では、個に犠牲を求めるのは容易ではない。
世代をまたぐ問題となると、一段と困難になる。財政再建が進まないのは、メリットを享受するのが将来世代で、現役世代は費用を負担するだけだからだ。われわれは利己的で、何世代も先の子孫への利他性は限られる。社会が一度合意しても、将来反故にされる可能性もあり、リベラリズムは世代間の問題に無力だが、根はさらに深い。
リベラリズムが可能だったのは、経済成長が続き、経済に内在する格差を社会保障が和らげたからだ。しかし、今度は社会保障が公的債務の膨張を招く。リベラリズムには解決不能だから、膨張が続き、資源配分の歪みで、経済成長が鈍化し、最後はリベラリズムそのものが困難になる。
新たな社会契約は可能か。まずリベラリズムの思想を確立したロールズの正義論の枠組みに、アダム・スミスの共感の作用を組み込む。将来世代を代弁する組織を作り、利他性を補完。ただ共感の作用は社会の一部にしか及ばない。

ロールズは個人の人生の目的と社会正義を独立したものと捉えたが、著者は個人の善は社会正義から独立して存立できないというサンデルの立場を取る。その上で、個人が利己的動機で行う「知の探究」が社会正義の進歩につながり、それが共有財産とされるなら、将来世代への自己犠牲(=財政再建)についても、自らの資産(社会正義)を守るための利己的行動として選択され得ると論じる。ただ、神なき社会で、共通の価値観の創造は本当に可能か。
宗教のような人間を超える存在があれば「大きな物語」の再生も可能だろう。本書はAIの発展にその可能性を見る。人類が不死性に近づくなら、自らの救済として自己犠牲も受け入れられる。ただ、シンギュラリティー到達後もAIが人類に対し友好的存在であると皆が信じるだろうか。