イラスト 高杉千明

豊田章男の周囲には、生まれたときから、当然のようにクルマがあった。

「自転車で近所中を駆け回っていた子供時代。父にドライブに連れていってもらうことが大好きな子供でした」と、彼は語っている。

その頃の章男の「将来の夢」は、タクシードライバー。父・章一郎の会社について明確な認識はなく、「毎日いろんなクルマに乗って帰ってくるなぁ」と思う程度だった。

章男は、1956年5月3日に名古屋市で生まれ、現在62歳である。中学時代まで地元で過ごした後、東京に移り、慶応義塾高等学校を経て、75年に慶応大学法学部に進学した。在学中はホッケー部に所属。俊足で鳴らし、日本代表に選出されてアジア大会にも出場した。日本がボイコットした80年のモスクワオリンピックのホッケーチームの候補選手だった。根っからの体育会系である。

運転免許は、18歳になるとすぐに取得した。仮免許試験の実技で脱輪し、一度は失敗した。免許取得直後、クルマを運転していて自宅の前でひっくり返った。驚いた章一郎が病院へ駆けつけたところ、もういないと言われた。一瞬、死んだのかと思ったら、家に帰っていたという。

初めてのクルマは、トヨタ「コロナ」で、「学生のときにおばあちゃんが買ってくれた。『超お坊ちゃん』だったからね」と、語っている。本当は「セリカ」が欲しかったが、言い出せなかった。社会人になってから、自分のおカネで中古の「カローラ」を手に入れた。

卒業後は、米バブソン大学経営大学院に留学する。投資顧問会社のスパークス・グループ創業者、阿部修平とは、留学当時からの付き合いで、気心の知れた仲だ。MBA(経営学修士)取得後は、米国に残り、投資銀行エー・ジー・ベッカー&コーに2年間勤務。その後、84年に帰国し、トヨタ自動車に入社した。

章男は、章一郎から「トヨタに入社しろ」「社長になれ」と言われたことは一度もない。試験を受けてトヨタに採用された。言ってみれば『転職』したのである。

豊田章一郎(トヨタ自動車名誉会長) 1925年生まれ。トヨタ自動車の実質的創業者である豊田喜一郎の長男、章男の父。名古屋大学工学部卒。52年にトヨタ自動車工業入社。82年に工販合併後初のトヨタ自動車社長に就き、会長も務めた。元経団連会長。

「目いっぱい叱られたことはあるか」「ありません」

配属されたのは、元町工場工務部日程課だ。「工場勤務から始めさせてほしい」と、当時社長だった章一郎に頼み込んだ結果である。章男の上司は、後に技術職の最高位といわれる技監を務めた林南八だった。章男を預かる際、上司からまず「工場をご案内しろ」と言われた。

「新入社員のくせに、何が『ご案内』だ!」と、憤った林は、章男に尋ねた。

「君、目いっぱい叱られたことはあるか」

「ありません」

「それは不幸なことだ。幸せにしてやるから覚悟しとけ!」

林は、怒ると平気で灰皿を投げるような激しい人柄で、遠慮なく章男を叱り飛ばして教育した。

林 南八(トヨタ自動車元技監)1943年生まれ。武蔵工業大学(現・東京都市大学)卒。66年トヨタ自動車工業入社。生産調査部長などを経て技監や取締役を務め、現在、顧問。トヨタのカイゼンを象徴する人物として知られる。

あるとき、章男が担当する生産ラインの部品が足りなくなった。このままでは、それこそラインがストップする。彼は夜8時ごろ、林の元に相談に行った。

「どうしたらいいでしょうか」

「こんなときこそ、何とかするのが工務部だろう! 自分で何とかしろ!」

章男は、突き放された。

考えた末、彼は、信じられない行動に出た。一人で部品メーカーの工場に赴いたのだ。別の部下からそれを聞いた林は、血の気が引いた。

「何で行かせた! 社長の息子に何かあったらどうする!」と、部下を怒鳴った。

工場は真っ暗で誰もいない。いたのは守衛だけ。章男は、守衛に事情を話したうえで、倉庫に案内してもらった。必要な部品を探し出し、『カンバン』(伝票)を置かず、名刺を1枚置いて持ち帰った。

待っていたのは、林の怒声だった。

「おまえ! 何やっとんだ、バカヤロウ!」

叱りつけたものの、「度胸の据わった男だな」と、林は内心、舌を巻いた。

その後、章男は、経理部、財務部を経験する。経理部時代の上司は、現トヨタ副社長でCFO(最高財務責任者)の小林耕士だ。章男と副社長の6人を含む現在の経営チーム『7人の侍』の一員で、トヨタの『大番頭』を自任する。

小林も、やはり厳しく章男を鍛えた。当時係長の章男は、すぐに社長になるわけではない。しかし、「その自覚を持っていない限りは、未来のトヨタ社長は務まらないぞ」と叱咤激励した。

小林耕士(トヨタ自動車取締役・副社長) 1948年生まれ。滋賀大学経済学部卒。72年トヨタ自動車工業入社。トヨタファイナンシャルサービス、デンソーへ出向後、同社副会長。2018年に異例の人事でCFO・副社長。同年から取締役。

90年、章男は、生産調査部に異動する。生産調査部は、TPS(トヨタ生産方式)を確立した大野耐一が、TPSの現場への浸透を目指して創設したセクションで、厳しいことで有名だった。章男は、生産調査部時代について、こう回想している。

「いろんな方から薫陶を受けましたが、いちばん学ばせていただいたのは、『現地現物の大切さ』です。仕事の中で『見てもいないのにいいかげんなことを言うな。必ず、現地現物で見て、確認してこい』と言われ続けました」

運搬中のトラックを追跡し信号待ちの隙に助手席へ突入

「私は、入社10年目の91年、生産調査部に配属になりました。当時の直属の上司が、係長になりたての豊田さんだった。おそらく、私が初の部下だったんじゃないでしょうか」

そう回想するのは現副社長の友山茂樹である。彼も『7人の侍』の1人だ。

友山はその頃、トヨタからの転職を考え、『DODA』などの転職雑誌を読みあさる日々を送っていた。章男と友山が、ともに生産調査部で働いたのは、1年間にすぎない。しかし、その短い間に、章男は友山に強烈な印象を残した。

「とにかく、変わった人だなぁと思った」と、友山は語る。

友山茂樹(トヨタ自動車副社長) 1958年生まれ。群馬大学機械工学科卒。81年トヨタ自動車工業入社。コネクティッドカンパニーとガズーレーシングカンパニーのプレジデントを兼務。トヨタの次世代モビリティー事業を牽引するキーマン。

彼は章男と、高岡工場の『カンバンぶれ』の改善に取り組んだ。TPSの1つに「必要なものを必要なときに必要なだけ造って運ぶ」という仕組みがある。それを実行するための道具として『カンバン』が使われる。部品箱の一つひとつにカンバンが付けられ、部品を1つ使用するとそれを外す。組立工場は外されたカンバンを回収し、部品工場へ届ける。こうすれば、部品工場は造りすぎの無駄がなくなり、組立工場も使わない部品を置いておく無駄な場所がなくなるのだ。

だが、あるとき、高岡工場に荷を納入するトラックの積載効率が低いことを新聞にたたかれた。『カンバンぶれ』はどの程度あるのか。実態調査をしなければならない。しかし、どうやって調査すればいいのか。

すべての原点は、「現地現物」だ。章男は、これまた突飛な行動に出た。

当時発売されたばかりのモスグリーンの「ソアラ」のハンドルを自ら握り、助手席に友山を乗せて、仕入れ先を出発したトラックを追跡した。赤信号で、トラックが停止したときだった。

「俺はトラックに飛び乗って運転手に話を聞いてくるから、おまえはこのクルマを代わりに運転して、跡をつけてこい!」

何を血迷ったか、章男はそう言って運転席を飛び出し、トラックのドアをドンドンとたたいたかと思うと、そのままトラックの助手席に乗り込んだ。運転手は驚き、その勢いに恐れをなした。無鉄砲である。まるで、『突貫小僧』ではないか。

友山は、衝撃を受けた。

章男は、見ず知らずの運転手から話を聞いた。内容をメモしたペーパーを友山に見せたうえ、次のように語った。

「現地現物でしか、本当の姿はわからない。トラックの問題は、トラックに乗ってみないとわからないよね」

当時から、彼は全身『TPS人間』だった。

「頭で考える前に行動せよ、考える暇があったらやってみろと、豊田係長に教わった気がしました。平凡なサラリーマンの俺は、『逃げまくっていたな』と反省し、転職雑誌を読むのをやめました」と、友山は振り返る。

本社販売部門に冷遇された現場部隊によるTPS推進

章男はその後、92年に生産調査部を離れて営業部門に配属された。カローラ店の東海地区担当員として販売支援を経験する。さらに、販売店業務や物流の改善に取り組む。3年後の95年、章男は他部署にいた友山に電話を入れた。

「友山よ、組立工場を6時間で出たクルマが、販売店で何週間も滞留している。野ざらしで、修理しないと売れないクルマまである。トヨタのジャスト・イン・タイムは、工場の中だけなのか。営業の物流改善をやる組織をつくる。一緒にやってもらうからな」

当初は、限られた地域での物流改善だった。が、全社的な取り組みに拡大するため、翌96年、国内業務部に「業務改善支援室」が設立された。初代室長は前出の小林で、課長が章男、係長が友山という布陣だった。当時、トヨタ自動車販売とトヨタ自動車工業の合併からすでに14年を経ていたが、TPSの基本的な考え方は、自販に浸透するどころか、まったく入っていなかった。

章男がリーダー、友山が副リーダーとなり、営業分野にTPSを導入すべく、工場や生産調査部など、本社のある三河から物流や工場改善の現場のスペシャリスト約70人を集めて部隊を結成した。「チームCS(顧客満足)」だ。名古屋の久屋大通沿いに拠点のあった、国内販売の司令塔「国内企画部」に乗り込んだ。

しかし、反応は冷たかった。

「生産の人間に販売の何がわかる。TPSなど、販売に通用するわけがない。どうせ失敗するから、関わらないほうがいい」

敬遠された。完全に、『招かれざる客』だった。

「背広を着た人ばかりのエリート組織に、作業着姿で出入りしますから、『納品は裏からにして』とか言われてね。三河の『サル』とまでは言いませんが、田舎者が何しに来た、という感じでしたよね」と、友山は苦笑する。

それでも、章男と友山は、やる気のあるディーラーからTPSの導入を開始した。効果を広めるには、大手のディーラーから変える必要がある。

そこで、当時『販売店のドン』と呼ばれた勝又基夫の率いる「トヨタ勝又グループ」を攻めることにした。千葉市に本拠を構える有力ディーラーだ。

ところが勝又は、訪問した章男と友山を相手に自慢話ばかりを聞かせ、2人の話に耳を傾けようとはしなかった。最新式のラック式自動倉庫を見せ、「東洋一の新車点検工場だ」と得意顔だった。

2人は、直球勝負に出た。

「ハエがたかるみたいに、クルマに整備員がたかっているじゃないですか」

現場の業務効率の悪さを、痛烈な言葉で批判した。当然ながら、勝又は激怒し、けんか別れとなった。若気の至りである。

勝又は大人だった。1週間後、1人で販売担当常務を訪ね、「ぜひ、うちの改善をやってください」と頭を下げた。

「よくよく考えられたんじゃないでしょうかね。勝又さんはそういう方で、カッとなるけど、きちんと考えて対応してくださった」

と、友山は振り返る。現場に入り込んだ業務改善の結果、180人いた整備員は130人まで減った。余った人材は、勝又グループのほかの販売店の改善メンバーにした。最終的に、勝又は、「初めてメーカーと心が通った気がした」と語り、業務改善支援室の活動を高く評価した。

時に嫌われ、非難も浴びる「王様」としての宿命を背負う

「俺は王様、おまえは将軍になれ」──。

友山は、章男に呼ばれて96年に業務改善支援室を立ち上げた際、章男から、冗談とも本気ともつかない言葉を投げかけられた。この言葉を、友山はいまだに覚えている。

「当時は、70人の『やさぐれ部隊』を率いる課長が豊田さんで、係長が僕で、『王様も将軍もねぇだろう』と思いました」

それからさらに、章男はこうも言った。

「どこと闘うかは王様が決める。どうやって闘うかは将軍がやれ」

最近も、彼は常々こう語る。

「社長は『決める人』、『責任を取る人』だ」

つまり、章男は『決める人』すなわち『決断の人』である。彼は、『決断』について、こうコメントしている。

「直感の3秒で決めることが多いですね。ただ、その『決断』によって痛みを被る人、苦労する人がどれくらいいるかを理解していない限り、3秒で決めてはいけないと思っています」

「決断」をする「王様」は、時に嫌われ、非難を浴びる存在だ。しかし、望むと望まざるとにかかわらず、章男は「王様」を演じなければならず、孤独、孤高を抱え込むことになる。それは、『御曹司』の宿命だ。

ましてや自動車業界は、「100年に一度の大変革期」を迎えている。トヨタは何を目指し、どこへ行くのか。

章男の心境は、まさに『100年の孤独』の真っただ中にある。

=敬称略=

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