日本におけるカーリング人気萌芽の時代から、平昌(ピョンチャン)冬季五輪での銅メダル獲得まで、すべてを戦い抜いてきた著者。リーダーとして代表チームを率いつつ、「カーリングは人生を豊かにするツールではあるけれど、決して私の人生のすべてではない」という心境で楽しめるまでに至った軌跡。

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環境の激変に対応できず戸惑ったトリノ五輪後

──2006年トリノ冬季五輪での「チーム青森」の活躍で、カーリングを知った人は多いと思います。

同じ北海道常呂(ところ)町出身の小野寺(現・小笠原)歩選手や林(現・船山)弓枝選手といった先輩たち率いるドリームチームでカーリングができることに、当時19歳だった私は胸がいっぱいでした。その後の五輪は、10年にはやはりチーム青森でバンクーバー。14年のソチは予選敗退で出られませんでしたが、18年は新チーム「ロコ・ソラーレ」で平昌へ出場しました。

──カーリングの中継では、選手の顔をカメラがアップで映しますよね。失礼ながら、バンクーバーではテレビに映る麻里さんの化粧が数段濃くなったように見えました。マスコミもマリリン、マリリンとはやし立ててる。でも結果は8位とトリノから1位後退して、芳しいものではなかった。で、私は麻里さんを、フィーバー後は消え去る人なのかな、と勘違いしていました。ところが8年後の平昌では、コーチボックスの中から共に熱く戦っていた。大きな誤解をしていました、ごめんなさい!

おっとアイツ成長したな、みたいな(笑)? でもそんなふうに思われた方も多かったと思います。海外で過ごしていると、化粧がどんどん濃くなったり、服装も変わってきたりするから。

カーリングの歴史も少し関係があるかもしれません。カーリングの発祥の地はスコットランドで、紳士淑女のスポーツとしてスタートしました。なのでスッピンで出てくるカーリング選手ってほとんどいないんです。フィギュアスケートみたいに身だしなみを決めてプレーゾーンに入ります。アクセサリーもしっかりと付いていれば注意されない。誤解されやすいスポーツかもしれません。バンクーバーでは満足のいくパフォーマンスができず成績を出せなかったから、余計に誤解されても仕方なかったかなと思います。

(撮影:尾形文繁)

──以前は、人からどう見られるかばかり意識していた、誰かがつくったイメージを守ろうとしていた、と振り返っています。