堺屋太一、本名は池口小太郎。1960年通商産業省(現経済産業省)入省。日本万国博覧会を企画。78年退官、作家として予測小説の分野を開拓した。98〜2000年経済企画庁長官。19年2月8日、多臓器不全で死去。享年83(撮影:今井康一)

2月8日、堺屋太一先生が亡くなった。どうにも信じ難いが、亡くなった。

83歳は早過ぎる。お元気な堺屋先生にお会いしたのは、2カ月ほど前の昨年12月の中頃。それが最後であった。来年になったら、あれもしよう、これもしようと話し合っていた。

9日の奥様からの電話で泣いた。奥様も泣いていた。2人で、泣いた。

間違いなく現代の天才だった

堺屋先生とは、50年近くのお付き合いだった。敬慕してやまない先生であった。話を聞きながら、この人は、間違いなく現代の天才だと思うときが、しばしばあった。

その卓抜した、意表を突くようなアイデアには、いつも仰天しながら、感心させられた。

なにより、博覧強記であった。確かに頭の中に「堺屋太一百科事典」があるのだと錯覚することがあった。数字に、統計に明るかった。歴史は、日本史にも世界史にも精通していた。なにを訊いても、なにを尋ねても、的確に即答し、教えてくれた。

1970年の大阪での日本博覧会は、まさに、「堺屋万博」であった。八面六臂の大活躍で、見事、万博を黒字にして、大成功させた。沖縄海洋博も仕切り、成功させた。

小渕内閣のときに、直々に乞われて、国務大臣・経済企画庁長官を務めた。予算委員会での答弁は素晴らしかった。「それにつきましては、5つの問題があります。まず一つは…」と原稿もなく、官僚からの資料も持たないまま答えた。質問した与野党の国会議員の質問者が感服、絶句するほどの、実に明快な、実に鮮やかな、そして、説得力ある答弁だった。

今日まで、堺屋太一経済企画庁長官ほどの論理明快、内容充実の答弁をする大臣を私は知らない。

経済財政審議会政策推進部会の委員であった私は、大臣室で意見交換後、堺屋大臣と一緒に部屋を出たことがある。廊下を歩きながら、雑談し、玄関には、大臣の公用車があった。当然である。帰る方向が同じだから、その車に一緒に乗せてくれるものと思ったが、堺屋大臣はピシャリと次のように言った。

「すまん。これ、公用車だから」

車に私を乗せることはしなかった。公私のケジメをキッチリつけることに感心したものだ。