平成の時代、デジタルカメラの普及で本業の写真事業が消失するという危機に直面した富士フイルム。当時、陣頭指揮を執り、収益構造の転換を果たした古森重隆会長に、平成とポスト平成における環境変化の見方を聞いた。

こもり・しげたか●1939年旧満洲生まれ。63年東京大学経済学部卒業後、富士写真フイルム(現富士フイルム)入社。富士フイルムヨーロッパ社長を経て、2000年富士フイルム社長、03年社長兼CEO。12年から現職。(撮影:今井康一)

──平成の時代をどのように振り返りますか。

日本メーカーが世界でもトップクラスの競争力を身に付けた時代、それが平成だったと考えている。

平成に入る直前の1980年代、日本企業は自動車をはじめとする製造業の多くの分野で米国を逆転し始めた。ところが米国はプラザ合意でのドル高是正という「ルール変更」に打って出た。1年で2倍近い円高になり、一時的に日本企業は大打撃を受けた。

それでも日本企業は平成の間、こうした困難に対応するコスト削減や技術力向上を行った。結果として不利な条件下でも、トップクラスの工業国として他国の製造業と戦えるようになった。

──富士フイルムではデジタル化の流れの中で、本業である写真事業消失の危機に直面しました。

2000年に利益の6割を占めていた写真事業が、わずか5年で赤字に転落した。喪失した収益をほかの事業で取り戻す構造転換に成功したのは、7万人規模の会社ではほかに例がないと思う。