シアトルの名門私立学校「レイクサイド・スクール」に通っていたころのポール・アレン(左)とビル・ゲイツ(写真:レイクサイド:スクールのアーカイブより)

ポール・ガードナー・アレン(以下、ポール・アレン)が、2018年10月16日、非ホジキンリンパ腫で65歳で亡くなった。あまりに突然の逝去で驚いている。

読者の皆さんは、ポール・アレンと聞いて、どういう人を想像するだろうか。

ある人は、太平洋戦争で米軍に撃沈された旧日本海軍の戦艦武蔵を遠隔操縦の潜水艇を使ってシブヤン海の海底910メートルに見つけ出した人と思い当たるかもしれない。

またある人は、プロフットボールのシアトル・シーホークスやプロバスケットボールのポートランド・トレイルブレイザーズやメジャーリーフサッカーのシアトル・サウンダーズの共同オーナーだと思い当たるかもしれない。

だが、ひょっとするとポール・アレンが、ビル・ゲイツと並ぶマイクロソフトの共同創業者であることは、もう忘れ去られているかもしれない。

ここで、ポール・アレンが果たした役割をきちんと書き残しておこう。彼らの起業の軌跡に関心のある方には、ぜひ全文を読んでいただきたい。とはいえ長文(4万5000字)になるので、ポイントを飛ばしながら読んでいただいても構わない。

ポール・アレンの家系

まずはポール・アレンの家系からみていく。言うまでもなく、どのような家庭に育ったかは、その後の人生に大きな影響を与えるからだ。

ポール・アレンはワシントン州シアトルに1953年1月21日生まれた。ビル・ゲイツより2歳9カ月年長である。

父親のケネス・サミュエル・アレン(以下ケネス・アレン)は、1920年オクラホマ州セミノール郡に生まれた。

ケネス・アレンの父親は、ジョージ・ルイス・アレンで1897年ミズーリ州に生まれ、ミズーリ州エルク・ホーンを経てオクラホマ州セミノール郡に来ている。

ケネス・アレンの母親の名前はリン。1901年テキサス州に生まれている。1930年の人口統計調査によると、オクラホマ州セミノール郡にいたことが確認できる。

結婚後ケネス・アレンの両親は、オクラホマ州セミノール郡からオクラホマ州カドー郡アナダーコに移動したと思われる。

ポール・アレンの母親は、エドナ・フェイ・ガードナー(以下エドナ・フェイ)で、1922年、6人兄弟の5番目の子供であるが、不思議なことに生年月日の記録がない。

エドナ・フェイの父親はレスリー・ハーバート・ガードナーで1886年にカンザス州エルク郡に生まれ、オクラホマ州カドー郡に移り、ラスラムを経て1930年の人口統計ではアナダーコに住んでいたことが確認できる。

エドナ・フェイの母親は、ジョシー・E・ウィリアムズで、1894年オクラホマ州に生まれた。エドナ・フェイの両親は1920年カンザス州カドー郡で結婚したようだ。米国の人口統計調査は10年に1度なので、両親は1920年にはカドー郡ラスラムにいて、1930年にカドー郡アナダーコにいた以上のことは確認できない。

エドナ・フェイの出生記録は見つけられないので、生まれた場所は特定できないが、1922年に生まれたようだ。アナダーコ高校にいたことが分かっているので、アナダーコで成長したらしい。読書好きの少女で、生涯、読書好きは変わらなかった。廉価本だが生涯に1万5000冊の本を集めたという。

ケネス・アレンの戦争経験

ケネス・アレンは、1940年オクラホマ州カドー郡のアナダーコ高校を卒業している。高校卒業が20歳ということは、色々な事情があったようだ。ケネス・アレンは、1941年5月、米陸軍に入隊した。第2次世界大戦に従軍し、ブロンズ・スター勲章をもらっている。英雄的行為に対して与えられる上から4番目の勲章である。ただちょっと気の毒だが、士気高揚のため、全員に配られたという説もある。

米陸軍に入隊したケネス・アレンは英国に派遣され、1944年6月、ノルマンディー上陸作戦に参加している。第1波部隊上陸の翌日、第2波上陸部隊の一員として上陸した。ケネス・アレンは、第501兵站鉄道中隊に所属していた。名称だけだと兵站の後方部隊のようだが、記録を調べてみると、かなり最前線で戦っている。

1944年12月のバルジの戦いでは、ケネス・アレンは、アルデンヌの森での戦闘にも参加した。米国陸軍省の1945年12月7日付の膨大なアルデンヌの戦闘の参加部隊名簿に、ケネス・アレンのいた第501兵站鉄道中隊の名前が残っているのを確認できる。1945年3月の有名なレマーゲン鉄橋の戦いでは、ドイツ軍の88ミリ砲の攻撃を受けたという。この橋を渡ってフランスからドイツ国内に攻め込んだ。

こうした戦争経験のせいか、戦後になってケネス・アレンは、バーバラ・W・タックマンの『8月の砲声』や、ウィリアム・L・シャイラーの『第3帝国の興亡』など、第2次世界大戦について書かれた書物をじっくり読んだという。自分が巻き込まれたあの状況はいったい何だったのか、はっきり知りたかったのではないだろうか。

フライング・ヘリテージ・コレクション

この父親の影響があったのかもしれない。ポール・アレンは第2次世界大戦関連の遺品を収集してシアトル北方のペイン飛行場にフライング・ヘリテージ・コレクションとして、巨大な博物館を作り、第2次世界大戦時の多数の航空機や機甲車両を集めて展示している。

飛べる状態で保管されている「隼」(Nakajima Ki-43 Hayabusa (Oscar)

私が実際に訪ねてみると、米軍の第2次世界大戦時のプロペラ戦闘機P51Dマスタングなどは修復してピカピカに磨き上げ、飛べる状態に戻していた。滑走路でのエンジン音にびっくりさせられた。

また日本海軍の零戦が3機、日本陸軍の1式戦闘機隼が1機あった。零戦は飛べないが、隼は飛べるらしい。深緑色に塗られているので、軽快な隼というより、ずんぐりした感じを受ける。

ポール・アレンの父親が砲撃を受けたドイツの88ミリ砲は、防盾のないものもあるが3門展示されていた。航空機や機甲車両の迷彩塗装は多少手抜きのような気がした。ポール・アレンは完璧主義者ではないようである。

ケネス・アレンが命を懸けて従軍したのは、民主主義の大義のため、祖国のためということもあったろうが、そうでもしないと米国では貧しい生まれの青年が上を目指すことはできなかったからかもしれない。ホレーショ・アルジャーの有名な立志伝小説にあるように、貧しい青年が刻苦精励の末、成り上がれるというのは、ある意味で米国の神話だ。実際はそう簡単にはいかない。現実には貧しい者はいつまでも貧しく、金持ちは大体は金持ちのままだ。そういう米国での具体的な調査結果を読んだことがある。

文字どおり、命を懸けることでもしなければ、米国の厳しい競争社会の底辺からは、そうやすやすと抜け出せない。米国の平等というのは機会の平等であって、結果の平等ではない。こうして命懸けで従軍した青年は、もし無事に除隊できれば、GIビル(復員兵援護法)の権利を得て、大学に行ったり、家を建てたり、事業を起こしたりした。

両親の結婚とシアトル移住

エドナ・フェイは、高校生のとき、夜間、地元の図書館に勤めていた。ケネス・アレンは、卒業式のダンスパーティにエドナ・フェイを誘おうとしたが小心でできなかった。エドナ・フェイは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学した。ケネス・アレンとエドナ・フェイの婚約は、その3年後である。ケネス・アレンは、復員後、オクラホマ州カドー郡アナダーコでエドナ・フェイと結婚したらしい。

ケネス・アレンは、GIビル(復員兵援護法)によってオクラホマ大学に入学し卒業した。また1948年、エドナ・フェイはUCLAの社会学科を卒業した。

経歴の空いている部分は掴めないが、1949年に2人はワシントン州シアトルに向かった。時代は、少しずれるが、スタインベックの小説『怒りの葡萄』に出てくるようなオーキーズ(オクラホマ州やケンタッキー州からの移動民)のような感じだろう。

ケネス・アレンはGIローンを使ってワシントン州シアトル市NE28番アベニュー7016番地に家を建てた。これは、ワシントン大学の北北東3キロほどの地所である。

父親とワシントン大学図書館

ケネス・アレンは、掴んだ幸運を絶対に危険にさらすことはなく、平凡で堅実な生活を選んだ。さらに経歴には空白の時間があるが、1960年、ケネス・アレンはワシントン大学図書館の図書館長補佐になっている。図書館長に昇進という話もあったが、学歴の差で他の候補に敗れた。

スコット・ギャロウェイの『the four GAFA  4騎士が創り変えた世界』の邦訳369ページにあるように、誰も表立っては言わないものの、実際には米国には厳然とした学歴によるカースト制度がある。米国はある意味で学歴偏重社会とさえいえる。

ポール・アレンの寄付によって建てられたワシントン大学のコンピュータ・サイエンス&エンジニアリング・ビル

ケネス・アレンは1982年までワシントン大学図書館に勤務した。ポール・アレンは、この父親をたたえるために1989年ワシントン大学に200万ドルを寄付し、ワシントン大学はポール・アレンの父親の名にちなんだケネス・S・アレン図書館を建設した。また同じ1989年に800万ドルを寄付してケネス・S・アレン図書館基金を設立させた。

2012年ポール・アレンの母親の逝去にともない、この基金はケネス・S・アンド・フェイ・G・アレン基金に改名された。ポール・アレンは両親思いの立派な息子である。これ以外にもポール・アレンはワシントン大学に多大の寄付をしている。

ポール・アレンの生い立ち

ポール・アレンは 1953年1月21日に生まれた。読書好きの早熟な子供であったらしい。また一貫して柔和で知的な雰囲気を持っていたという点では多くの人の評価が一致する。ビル・ゲイツが年齢より若く見えたのに対し、ポール・アレンは年齢よりずっと落ち着いて見えた。髭を伸ばすと、10代のときでも、20歳以上に見えた。昔の写真を見ると、ポール・アレンがビル・ゲイツより2つだけ年長なようには、誰も思わないだろう。ビル・ゲイツは、まるで子どもで、ポール・アレンは大人のようにみえる。不思議な組み合わせである。

ポール・アレンは、読書好きな科学少年で家の地下室で実験を繰り返した。4年生頃から化学実験に夢中になったが、次第に電子回路の製作に夢中になって行く。中古のテレビを買い漁って、簡単な修理をしていたようだ。不思議なことに、そういう経歴でありながら、コンピュータのハードウェアにはあまり強くなかった。コンピュータに興味を持ったのは11歳の頃からだったという。

またポール・アレンは、芝生の花粉アレルギーがあったので、野外でのスポーツはあまりやらなかった。他の科目の成績は良かったようだが、体育にはBがついたこともある。ただ父親の影響もあって、スポーツ観戦、特にバスケットボール観戦は好きだったようだ。

スペース・ニードルの傍にあるジミ・ヘンドリクス記念館

後年、プロバスケットボールのポートランド・トレイルブレイザーズの共同オーナーになったのは、この辺にルーツがあるかもしれない。

ポール・アレンは映画も好きで『猿の惑星』や『エクソシスト』なども見ていた。映画好きはビル・ゲイツと共通する。音楽については、ピアノには興味を示さなかったが、ギターには打ち込んだ。特にジミ・ヘンドリクスに傾倒した。若い頃は服装まで真似することになった。

ポール・アレンのジミ・ヘンドリクスに対する思いは終生変わらず、2000年6月、シアトルのスペース・ニードルの傍にエクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト(EMP)という巨大なジミ・ヘンドリクス記念館を作った。フランク・ゲーリーが設計した赤い色の屋根が目立つサイケデリックなドームである。これに対抗したのか、ビル&メリンダ・ゲイツの財団の建物は、そのすぐ傍にある。これもまた巨大な建物である。

ビル&メリンダ・ゲイツの財団の建物

レイクサイド・スクールに入学

ポール・アレンは、公立小学校に通っていたが、教室の後ろの席で授業も聞かず、好きな本ばかり読んでいるのを母親が見つけた。なんとかしなければと考えた両親は、息子をシアトル市ノースイースト1番アベニュー14050番地にあった名門私立のレイクサイド・スクールに入れようとした。昔はワシントン湖のほとりにあったから、レイクサイド・スクールと名がついた。その後、ずっと北の方に移転してワシントン湖のほとりにはない。

レイクサイド・スクールの入学試験は難しいので有名だったが、ポール・アレンは、なんとか合格した。当時のレイクサイド・スクールの学費は、ハーバード大学の学費にも匹敵する1335ドルで、両親は大変な負担を強いられることになった。しかし、ポール・アレンは、レイクサイド・スクールに入れたことが本当に幸福につながったと後に感謝することになる。

1967年、ビル・ゲイツが12歳の秋、レイクサイド・スクールの7年生に入学する。日本の学制で言えば中学1年生である。

航空写真で見るとすぐ分かることだが、1967年、レイクサイド・スクールは、7年生と8年生(中学校)からなるロウアースクールと9年生から12年生(高校)までのアッパースクールに分かれた。両方のスクールは物理的に200メートルほど離れている。アッパースクールは北側、ロウアースクールは南側である。ビル・ゲイツは南側のロウアースクールに入学した。現在、ロウアースクールは、ミドルスクールに改称されている。

レイクサイド・ミドルスクール

レイクサイド・スクールのビル・ドゥーガルという幾何学の教師は、生徒にコンピュータを使わせるべきだと考えた。そこでレイクサイド・スクールの母の会に働きかけた。母の会はバザーの売上金を学校に寄付し、それをコンピュータに使うことを了承した。

ビル・ドゥーガルは、テレタイプASR-33をリースした。これを電話回線経由で、シアトルの中心部にあったゼネラル・エレクトリック(GE)の大型コンピュータGE-635のタイムシェアリング・システムに接続した。

コンピュータ・システムの管理は、フレッド・ライトという若い数学教師が担当していた。自由な選択科目であって、生徒達の自由な運用に任されていたようだ。教師達は、あっと言う間に生徒達に追い抜かれ、教えることなどなかった。テレタイプASR-33は、レイクサイド・スクールのアッパースクールのマカリスター・ホールに置かれた。

マカリスター・ホールは、1948年に第2次世界大戦の太平洋戦線で戦死したチャールズ・ラリア・マカリスターを記念して建てられた。元々はマカリスター・ハウスと呼ばれたが、後にマカリスター・ホールと呼ばれるようになった。

テレタイプASR-33はアッパースクールに設置されていたため、ビル・ゲイツは、いつもロウアースクールからアッパースクールに走って行った。マカリスター・ホールは寄宿生のレクリエーション・ハウスとして構想されたが、生徒や職員の寄宿舎そのものに使われたりした。ビル・ゲイツのいた頃には数学科の管理下にあった。

ここには少なからぬ数の生徒が集まって来たが、10年生のポール・アレンと、8年生のビル・ゲイツは、きわめて親しい仲になった。ポール・アレンは1953年1月21日生まれ、ビル・ゲイツは1955年10月28日生まれで、年齢差は2年9カ月である。

ビル・ゲイツの育った家はワシントン州41番ストリートNE5161番地で、ポール・アレンの家からは5キロほど東南にあった。ポール・アレンはビル・ゲイツの家を訪問した当時を振り返って、自伝に、あまりに大きい家なので少し怖かったくらいだと書いている。ポール・アレンの家が通常の大きさの勤労者向け住宅だったため、そのように感じたのだろう。

左からポール・アレン、リック・ウェイランド、ビル・ゲイツ(写真・ビル・ゲイツのブログより)

ビル・ゲイツの他にもコンピュータに夢中になった生徒には、ビル・ゲイツ、ポール・アレンのほかにマーク・マクドナルド、リチャード・ウェイランド(以下リック・ウェイランド)、クリス・ラーソンがいた。この3人は後にマイクロソフトに雇われた最初のプログラマーになった。早逝したケント・エバンスもいた。

レイクサイド・スクール母の会が集めた3000ドルは、コンピュータ・システムの使用料金に注ぎ込まれ、なんと1カ月で使い果たしてしまったと言われている。