2003年3月11日に撮影されたビル・ゲイツとポール・アレン(写真:REUTERS/Anthony P. Bolante)

10月15日、マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンの死去を彼の家族が発表した。享年65だった。アレンはハーバード大学を中退し、学友のビル・ゲイツに、現在では世界最大のソフトウェア会社になっているマイクロソフトを創業しようと説得した。

アレンは、マイクロソフトがまだ超巨大企業になっていない1983年、ゲイツと対立して同社を退社したが、創業時のパートナーシップとしての株式により、残りの人生と数十億ドルの資産をヨット、美術、ロック音楽、スポーツチーム、脳研究、不動産などに費やした。

1984年のポール・アレン(左)とビル・ゲイツ(写真: Doug Wilson/CORBIS/Corbis via Getty Images)

アレンはガンの一種である非ホジキンリンパ腫の合併症で死亡した。10月上旬になって、2009年にも治療を受けていた非ホジキンリンパ腫の合併症を再発させ、再び治療を受けていることを明らかにしていた。マイクロソフトを退社する前の1980年代初めにも、別のガンであるホジキンリンパ腫の早期治療を受けていた。

音楽愛好家であるアレンは、エンターテイメント業界にU2のシンガー、ボノなど有名な友人が数多くいた。大都市であるシアトルからワシントン湖を渡ったマーサー・アイランドにある邸宅で、ひっそりと暮らしていた。

アレンは出身地でもある太平洋岸北西地域への想いを持ち続け、10億ドル以上のほとんどを地元の慈善事業に資金援助し、Amazon.comがホームと呼んでいた本社ビル集約地点、シアトルのサウス・レイク・ユニオンのテクノロジーハブ拠点を再開発し、アレン脳科学研究所の本部を建設した。

アレンが率いる不動産開発会社「バルカン」が所有するシアトルのサウス・レイク・ユニオン地区(写真:Toshihiro Yamada)

ゲイツは、アレンが地域社会の強化に焦点を当てた「第二幕(second act)」を掲げているマイクロソフトパートナーシップに賛同していたと説明し、声明の中で「最も古い大切な友人のひとりを亡くして悲しい」と述べた。

マイクロソフトの現在の最高経営責任者サティア・ナデラは、彼を世界を変えた「物静かな不屈の」人物だと称した。

地元のニュースサイト、Crosscut.comおよびシアトル・ウィークリー紙の創業者、デヴィッド・ブリュースターは、「シアトルでの彼の評価は低すぎる」と語った。そして、「彼は素っ気なくて、あまり人前には出ない人だった。しかし、アレンがシアトルのために行った多くの善行を掛け値なしに評価するならば、その振る舞い方において、ハワード・ヒューズなんかよりも、もっと高く評価されるべきだ」と力説した。

ポール・ガードナー・アレンは、図書館員の父親と教師の母親との息子として、1953年1月21日、シアトルで生まれた。アレンはゲイツより2歳年長だったが、1968年にシアトルのレイクサイド・スクールのコンピュータ室で出会った時、ふたりの間に共有できる情熱が存在することを知った。

ゲイツ氏は1985年の著書『ビル・ゲイツ 未来を語る』の中で「当時、私たちはただ、無為な時間をすごしていた。あるいは、そう思っていた」と振り返った。

ボストンからアルバカーキへ

アレンはワシントン州立大学に通っていたが1974年に中退し、ボストンのハネウェル社で職を得た。アレンはハネウェル在職中、近くのハーバード大学に通うゲイツに対し、中途退学し、パーソナルコンピューティングの初期の革命に加わろうと、しつこく迫っていた。

結局、ゲイツもアレンの言葉に従い中退。2人は1975年、自作組み立てで400ドルの無骨なデスクトップ・コンピュータ「Altair 8800」用のBASICソフトウェアを共同開発した。

2人はAltairのメーカーにほど近い、ニューメキシコ州アルバカーキに移り、会社を興した。マイクロコンピュータとソフトウェアを合体させたMicro-Softという名前にしたのは、アレンのアイデアだった。ハイフンは後日、削除された。

アレンは会社設立時から8年間、マイクロソフトの技術部門を担当。MS-DOSやWordなどPC革命を可能にし、マイクロソフトをトップ企業に押し上げた初期のソフトウェアを作った数少ない人物のひとりである。

しかし1980年代初頭になると、アレンはソフトウェア開発の最前線から退いていた。1990年代にマイクロソフトの製品が至る所で使用されるように売り込んでいった、ゲイツのような商売の素質と広く信用を獲得する才能を、アレンはまったく示すことはなかった。

アレンにホジキンリンパ腫の診断が下ってから、わずか数カ月後の1982年12月、ゲイツは新たな補佐官、スティーブ・バルマーと意気投合。アレンは1983年、マイクロソフトを退社した。アレンが遺した2011年の自叙伝『ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢』によると、ゲイツとバルマーが密かに、アレンの持ち株を減らそうと画策しているという噂話を聞きつけていた。

「ゲイツとバルマーは、私の当時の生産性の低さを不満に思い、自分たちや他の株主にストックオプションを発行して、私のマイクロソフト株を希薄化しようと相談していた」と、自伝の中で述べている。

ゲイツとバルマーは後に謝罪したが、しこりが残った。アレンは2000年まで取締役として留まっていたが、マイクロソフトから身を引いた。

ガンとの闘い

アレンは放射線治療を受けてガンから回復していたが、2009年、別の血液がんである非ホジキンリンパ腫と診断される。2010年4月には寛解したが、2018年に再発した。