不正の舞台となったスバルの主力工場、群馬製作所(群馬県太田市)。自浄作用が働かなかったのはなぜか(編集部撮影)

昨年、創業100周年を迎えたSUBARU。社名を「富士重工業」から海外でも認知度の高いブランド名の「SUBARU」に変えた。会社の一段の飛躍を誓った矢先に不正でつまずく。くしくもスバルの祖業は、品質の絶対的な保証が求められる飛行機製造だ。名門スバルが抱えていた「負の遺産」とはいったい何か。

スバルの祖業は飛行機製造で、戦前は戦闘機を製造していた(写真:SUBARU)

技術力強みに急成長を遂げる

「スバルの自動車の魅力は、技術力にある」。そう話すスバルのファン、「スバリスト」は少なくない。1958年発売の「スバル360」は軽自動車で初めて4人乗りを実現した。自動車メーカーとしての地位を引き上げ、開発を率いた百瀬晋六は名技術者として社内で語り継がれる。その後も、水平対向エンジン、四輪駆動車(4WD)など走りの良さに定評のあるクルマを作り続けてきた。近年は安全運転支援システム「アイサイト」などもヒット。米国ではシェアが4%に迫るなど、世界レベルでの急成長を遂げた。

1958年発売の「SUBARU360」は「てんとう虫」の愛称で呼ばれ、大ヒットした(編集部撮影)
スバルが今年発売した新型「フォレスター」。世界的なSUVブームでスバルには追い風が吹く(撮影:風間仁一郎)

製造現場と他部門には大きな溝

しかし、その成長の裏側で、潜在的な問題が見過ごされてきたのも事実。完成検査における一連の不正ではそれが白日の下にさらされた。製造の現場とそれ以外の営業・開発部門や本社機能との間にある、塞ぎがたい大きな溝だ。

不正の舞台になった群馬製作所(群馬県太田市)は、1917年に中島知久平が設立した飛行機研究所(のちの中島飛行機)時代から製造を行う、由緒ある主力工場だ。戦中は戦闘機を作っていたが、戦後は富士工業など12社に解体されたのち、軍需産業から平和産業への転換を謳い、航空機のほか自動車や産業機械、その部品などを生産するようになった。1953年、富士工業など5社の資本出資により誕生したのが富士重工業だ。

中島飛行機がスバルにもたらした正の遺産は大きい。その源流がなければ、今のスバルの高い技術力はなかっただろう。開発部門では、飛行機技術者でもあった百瀬の「若手も活発に発言すべし」といった格言がいまだに大切にされているという。

体育会系文化が不正を誘発