お盆を過ぎると痛感する。近親を彼岸に見送ることが、とみに多くなってきた。そういうお年ごろなのであろう。今後もどうやら、減りそうもない。くりかえすうち、遠からず自分の番も巡ってくる。人生の逃れられぬ宿命にほかならない。

日々の生活・暮らしに関わることながら、そうした葬祭について、ほとんど知るところがなかった。歴史をなりわいにしている身、史実としての宗教・仏教は、関連の知識をつけないわけにはいかない。けれどもしょせんは頭だけ、机上の空論というべきである。

だから実地の慣行・しきたりには暗い。実家の仏事も同じ、折々の身辺の諸事は煩わしいと思うだけで、関心が持てなかった。恥ずかしながら、父母の元気な頃は、それでもよかったのである。

お経に感じない違和感

ともあれ十数年前に父を亡くして以来、そんな仏事に携わる機会がふえ、当然ながら読経をよく聞いた。導師の読経は、法要のクライマックスである。仏事を知らないのだから、お経もいわずもがな。聞いていても、何をいっているのか、よくわからない。