鹿島の押味至一社長が高校時代を振り返る(撮影:今井 康一)

名門高校には、偏差値や大学進学実績だけでは測れない何かがある。伝統が生み出す独自の校風、質の高い授業や指導体制、優秀な生徒が集まり切磋琢磨する雰囲気、卒業生のネットワークなどだ。8月6日発売の『週刊東洋経済』で特集した「ザ・名門高校 校風、進学実績、人脈の大研究」取材班から5回にわたって、名門校で育った企業トップたちの高校時代に迫るリポートをお届けする。第2回は横浜市立南高校に通った鹿島社長の押味至一氏。

実家は横浜の井土ヶ谷というところでミシン加工屋をやっていて、中華街向けに中国の民族衣装を仕立てる仕事をしていました。ただ、私が中学生の時に親父が倒れまして、寝たきりになって仕事ができなくなってしまったんです。そこで私も働きに出ることになりまして。平日は毎日新聞配達、休日は郵便局で郵便の仕分けをしていました。

奨学金を借りて何とか公立高校に入った

中学3年生になって進学するかどうかを相談したとき、親父が「高校ぐらい卒業しなきゃだめだ」と。奨学金を借りれば何とか公立高校に入れるので、中学の学区の中にあった横浜市立南高校に進学しました。皆から「なんこう」と呼ばれています。今でこそ中高一貫校になって、進学実績も伸びていますが、当時は東大がせいぜい1人2人出るかどうかで、進学実績も大したことはなかったんですよ。

高校の特色?何だろう、フォークダンスが盛んだったかな。野球は強くなかったし……(笑)。われわれの世代はいわゆるベビーブームで、1クラス50名くらいで、それが11クラスもあったんです。中学は17クラスもありましたよ。まったく、すごい時代でした。

ただ、いわゆる浮ついた高校生活ではなかったですね。高校進学後も新聞配達は毎日続けていましたし、ヤクルトの配達もやったかな。小学生に週2回勉強も教えていました。横浜では港がありますから、夏休みには泊まり込みで、沖仲仕(おきなかし)という荷物の揚げ卸しをしていました。