井上ひさし氏の表現法の特徴は、母語としての日本語能力が死活的に重要であるという認識に立っていることだ。ここで重要なのは、母語と母国語が異なる概念であるということだ。〈母語について確認しておきましょうね。母国語と母語は、まったく質が違います。/私たち人間の脳は、生まれてから三年ぐらいの間にどんどん発達していきます。生まれた時の脳はだいたい三五○グラムで、成人、二十歳ぐらいでは一四○○グラムぐらいになります。ちょうど四倍ですね。四倍にもなるのに、なぜ頭蓋骨がバーンと破裂しないのかというと、脳はあらかじめ折りたたまれていて、泉門(せんもん)という隙間がちゃんとある。そこが発達していくから大丈夫なんです。/そんなふうにして脳がどんどん育っていくときに、お母さんや愛情をもって世話をしてくれる人たちから聞いた言葉、それが母語です。/赤ん坊の脳はまっさらで、すべてを受け入れる用意がしてあります。ですから、日本で生まれても、まだ脳が発達していない前にアメリカに行って、アメリカ人に育てられると、アメリカ英語がその子の母語になります。赤ちゃんは、自分を一番愛してくれる人の言葉を吸い取って、学びながら、粘土みたいな脳を、細工していくわけです。〉(井上ひさし『日本語教室』新潮新書、2011年、18ページ)

外務省には生まれたときから外国で育ったバイリンガル(二言語話者)がいた。バイリンガルであっても日本語と外国語のレベルが完全に同じという人は少ない。家庭で用いている言語は日本語である場合がほとんどなので、子どもの発想は日本人的になる。イスラエルにいるロシア系移民は、ロシア語とヘブライ語のバイリンガルがほとんどだ。家庭で使用する言語がヘブライ語だとイスラエル人的な発想になり、ロシア語だとロシアに在住するユダヤ人と似た発想になる。人が自然に身に付けた第1言語は、その人の思想そのものなのである。

このような観点から、井上氏は言語を道具と見なす言説を退ける。〈言葉は道具ではないのです。第二言語、第三言語は道具ですが、母語=第一言語は道具ではありません。アメリカでは、二十世紀の前半に「言語は道具である」という考えが流行しました。アメリカの合理主義と相まって、一時期、世界を席巻しますけれども、やがてだんだんと、そうではない、母語は道具ではない、精神そのものであるということがわかってきます。母語を土台に、第二言語、第三言語を習得していくのです。ですから結局は、その母語以内でしか別の言葉は習得できません。ここのところは言い方がちょっと難しいのですが、母語より大きい外国語は覚えられないということです。つまり、英語をちゃんと書いたり話したりするためには、英語より大きい母語が必要なのです。だから、外国語が上手になるためには、日本語をしっかり──たくさん言葉を覚えるということではなくて、日本語の構造、大事なところを自然にきちっと身につけていなければなりません〉(前掲書19~20ページ)。