歴史の教科書は最新の研究や学説を反映して、つねに書き換えられている。10年前の歴史常識が、今は非常識になっていることもある。歴史学習の面白さを教科書調査官だった日本史研究者が伝授。

たかはし・ひでき●1964年生まれ。国学院大学文学部准教授。今年3月まで歴史担当の文科省教科書調査官。学習院大大学院修了。(撮影:尾形文繁)

日本の大人たちは「教科書」に思い入れを持っていますね。さらには教科書が一つの価値基準になっていると感じることがあります。書店には、『○○の教科書』といった本がたくさんありますし、日常の会話の中で「教科書で教わった(あるいは教わらなかった)」といったフレーズを聞くことがあります。そういう意味で、日本では教科書信仰が強いのでしょう。そして、教科書の中でとりわけ関心を持たれるのが、歴史、特に日本史のようです。

しかしその大人たちが日本史の教科書をよく知っているかといえばそうでもない。昔、何十年か前に習ったうろ覚えです。現場の教員でも、複数の教科書をじっくりと読み比べる機会はあまりありません。ですから、多くの人は昔使った教科書、あるいは話題になった一部の教科書のイメージで、現在の教科書をとらえてしまっているきらいがあります。

実は、数十年前と現在とでは、日本史教科書の記述内容や視点にはたくさんの違いがあります。史料(歴史資料のこと)の読み方も昔と比べ精緻になっていますので、学説は変化しています。そんな日本史教科書(主に中学生、高校生向け)の変化について、解説をしてみましょう。

私は今年3月まで文部科学省で教科書調査官をしていました。検定申請された図書が学習指導要領に沿っているか、学説状況に照らして誤りはないか、生徒が誤解するおそれはないかなどを審査する教科用図書検定調査審議会のために、たたき台(調査意見書)を作るのが仕事です。もちろんそこには検定基準があります。自ら検定するのではなく審議会のために学術的な調査を行うので、検定官ではなく調査官という職名なのです。

「聖徳太子」ではなく「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」。いわゆる聖徳太子について、以前の教科書では、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した政治の中心人物と説明してきた。ところが現在では、厩戸皇子の表記を優先し、推古朝(すいこちょう)において蘇我馬子(そがのうまこ)とともに共同で執政した指導者と位置づけている。

聖徳太子は死後の呼び名です。今の教科書では実名とされる「厩戸皇子」(『日本書紀』による)を併記しています。ただし天皇の称号の成立が疑われる時代に「皇子」の表記が実際に使われたかは不明であるため、「厩戸王(うまやどのおう)」と表記する教科書もあります。

その事績についても評価が大きく変化しています。推古朝では大臣である蘇我馬子の発言力が大きかったといわれています。一方で、聖徳太子も有力王族として政権の中枢に位置していたと考えられ、推古朝ではこの2人による共同執政が行われていたとする見方が有力になっているのです。

さらに推古天皇にも政治的な権力や主体性があり、3人が政治権力の中核を成していたとする見方が強くなっています。1人に政治権力が集中していたわけではありませんから、推古朝の政治を「聖徳太子の政治」として描く教科書はほとんどありません。