1980年代前半にポストモダニズムが流行するまで、大学レベルでの知の形は新カント派の影響が強かった。新カント派は、実験が可能で法則を見つけ出す自然科学と、研究室での実験が不可能なので、抽象力を駆使してモデルを形成して個性を記述する精神科学(人文・社会科学)を区別すべきと考える。

川喜田二郎氏の発想法も新カント派的学術観のうえで成り立っている個性記述の技法だ。個性記述が核となるのだから、表現法が重視されるのは当然のことだ。

まず、川喜田氏は「一回性」を強調する。〈実験室のなかで研究対象になる自然は、なんども繰り返して再現することができる。反復が可能である。すくなくとも研究目的に対しては、反復が可能として扱ってよい。それに対して野外的自然は一回性を帯びている。これは歴史的に二度と同じ状況が繰り返されないことを意味する。またそれとおなじ現象がおこることは、他の地域ではありえない。場所的一回性がある。つまり歴史的、地理的一回性を帯びている。これは別の言葉でいうなら、個性的な自然ということもできる。/たとえばフランス革命は歴史上、一度しかおこらなかった。おなじようなことはそれ以前にもけっしてなかったし、これから先にも二度とはおこらないだろう。また北海道は地球上どこにもない地域で、北海道だけにしかない、一回性的、個性的なものである。また、ある会社や職場で、ある特定の意地の悪い部課長がいるという現場の状況は、ここのほかに世界中どこにもない。それがありのままの自然、あるいは野外的自然というものなのである。〉(川喜田二郎『発想法 改版』中公新書、2017年、13ページ)

川喜田氏は気づいていないと思うが、「一回性」を強調するのはキリスト教神学の伝統でもある。イエス・キリストは、歴史において一度しか現れなかった。このイエス・キリストの「一回性」によって、人類は救済されるのである。それだから、イエス・キリストの個性を記述していくことがキリスト教神学の中核になる。