小欄第50回の駄文は、「京都ぎらい」井上章一先生のご威光もあってか、めずらしくいくつか反響をいただいた。いずれも日本のなかにある「中華」の様相といった論点で、どうやら共通する。

歌舞伎をもちだしてきた畏友のコメントがおもしろかった。『仮名手本忠臣蔵』の三段目「殿中松之間」の場で、高師直(こうのもろなお)が塩谷判官(えんやはんがん)を最終的に「キレさせる」決めゼリフが「あづまえびす」だった、との由。演劇に疎い筆者はまったく思いつかなかった場面であるし、なかなか鮮明に思い出せない。

それでもさすがに、有名な「鮒(ふな)侍」の悪口は知っている。これも含意としては、ほとんど変わりはない。つまるところ高師直(吉良上野介(きらこうづけのすけ))が、礼をわきまえぬ田舎者だと塩谷判官(浅野内匠頭(あさのたくみのかみ))を罵倒したわけである。

後天的に「化」す中華

ここで、はたと考え込んでしまった。高師直であろうと吉良上野介であろうと、塩谷判官であろうと浅野内匠頭であろうと、公家・京都人からみれば、みな武門で、「あづまえびす」である。同類で選ぶところがない。その仲間うちで、差別感・侮蔑感を丸出しに罵っているのである。

吉良家はかつては足利一門の名流、徳川時代は高家として典礼をつかさどる家柄になっていた。そのため礼・文化を身につけた中華を以て任じたのであろう。中華からみれば、礼をわきまえない者は、すべて「夷(えびす)」にほかならない。

中華とはこのように、必ずしも一定の固有名詞ではなく、後天的に「化」すことのできるものでもある。朱子学の始祖、韓愈(かんゆ)は「中国に入ってくれば、それは中国なのだ」と断じた。この場合の「中国」とは、現代の国名ではなく、中華と同義である。「夷」でも誰でも中華になれる、逆に中華であっても、礼・文化・道義を失えば「夷」に転落するというわけであって、中華とはあくまで相対的なものだった。