渡部昇一氏の表現法が優れている背景には、同氏のカトリック的な世界観がある。キリスト教神学の基礎訓練を受けている筆者には、渡部氏の根源的な思考法がよくわかる。プロテスタンティズムが近代的な世界観と上手に折り合いをつけたのに対し、カトリシズムは本質において近代に対して懐疑的だ。プレモダン(前近代的)思考をしているともいえる。それゆえに近代的思考が袋小路に陥っている現状では、近代の枠組みにとらわれないカトリック的思考の強さが現れる。

渡部氏の場合、それが近代科学の分析的思考に対する批判という形で現れている。〈現代社会が拠(よ)って立つ思考は、何と言っても近代科学思考です。戦後の教育も私たちの物事に対する考え方も、言い換えれば私たちの脳自体が、このあくまでも一つの思考法にどっぷりと浸からされている恐れが多分にあることを、私たちはまず認識しておかなければなりません。/さて、この近代科学思考の一番の大本を思想史的に遡ると、ソクラテス(前四六九頃~前三九九年)からの二つの流れの一つであるアリストテレス(前三八四~前三二二年)の哲学に辿り着きます。アリストテレスの哲学の特徴を一言で言うと、それはアナリシス(analysis)と言われています。アナリシスとは分析のことです。〉(渡部昇一『知的人生のための考え方』PHP新書、2017年、30ページ)

分析という言葉は企業や役所で日常的に用いられるが、その意味を理解している人は意外と少ない。例で説明しよう。ここに黒犬がいる。そのとき「この黒犬は黒い」というのが分析的判断だ。黒犬という主語の中に、黒いという術語が含まれているからだ。これに対して「この黒犬は利口だ」と言うと分析的判断にはならない。なぜなら、黒犬という主語から利口だという意味を読み取れないからだ。こういう主語以外の要素が加わると、総合的判断になる。分析的思考は同じ事柄を別の言葉で表現するということにすぎない。われわれの思考のほとんどは総合によってなされている。日常用語でいう分析には、総合の要素も含まれている。筆者は外務省の主任分析官を務めていたが、仕事で最も重要なのは総合力だった。

アリストテレスの分析的思考では主体と客体を区分し、考察する事柄を対象化することが不可欠だ。〈彼は、自己の関心を「対象」を知ることに向けました。「対象」は英語で言えばオブジェクトであり、そうした知的な姿勢がオブジェクティブ、つまり私たちが事あるたびに求められる「客観的」と言われる姿勢です。このアリストテレスの考え方の立脚点は、彼の言葉である、「実体(ウジア)は、知覚しうる個々の対象に内在する」にそのポイントが言い表わされています。/内在するものを知るためには、当然それをばらばらにして見るより方法がありません。その姿勢がとりも直さず、アナリシスなのです。〉(31ページ)

分析の偏重が人間の思考力を弱らせている。近代における分析的思考の発展について渡部氏はこう述べる。〈このアリストテレスのアナリシスの姿勢を引き継いだのが、近代科学の始祖であるフランシス・ベーコン(一五六一~一六二六年)です。彼は科学において、デセクション(dissection)という解体・分析の方法に言及しています。これは、アナリシスという立場とよく似ており、分けて解明して真実を探すというものです。/そして、この「分析・分解すれば、物事の真理が分かる」という立場は、さらにデカルト(一五九六~一六五○年)に引き継がれていきます。彼は主著『方法序説』の第二部で最も重要な科学的手法を提示し、まず数学の明証性を範とした上で、「問題はできるだけ多くの小さい部分に分けて単純で認識しやすい要素を見出す」という分析の手法を、その一つとして提示しています。〉(31~32ページ)