筆者は、表現法でレトリック(修辞)をとても重視する。この点でも、筆者と渡部昇一氏の認識は共通だ。渡部氏は、レトリックと論理の違いについてこう説明する。

〈レトリックというと、修辞学です。修辞学というと、一般には、単なる言葉の遊びにすぎないという誤解がありますが、実は人と人との関係を知的に構築するための方法なのです。

なぜ修辞学があるかというと、世の中には真理かどうか分からないこと、正しいとか間違っているとか客観的にはっきりしないことがあって、それを相手に対して説得する時には論理ではない修辞を使って納得させるしか方法がないからです。〉(渡部昇一『知的人生のための考え方』PHP新書、2017年、135ページ)

要するに、論理以外の方法で人間を説得するときにレトリックが重要になるのだ。具体例を挙げるならば、「カズオ・イシグロと村上春樹のどちらが小説家として優れているか」というような問いだ(筆者は村上春樹氏のほうがはるかに優れていると思う)。あるいは、「人間の悪を演じさせたならば、小泉今日子と永作博美のどちらがうまいか」というような問いだ(筆者は永作博美氏のほうがうまいと思う)。

こういう議論をするときは、論理で相手を説得できない。筆者ならば、村上春樹氏と永作博美氏を擁護するレトリックをその場でいくつも用意するだろう。

他方、「三角形の内角の総和は何度か」とか「国会議員以外の者が内閣総理大臣になることができるか」というような問いに答えるときにはレトリックは関係ない。論理だけでいい。前者は180度であり、後者は憲法第67条で総理は国会議員の中から国会が指名すると定められているので、国会議員以外の者が総理になることはできない。これらはいずれも論理の問題だ。相手が納得しなくても、論理で押し切るしかない。