好んでやまないフレーズを、誰しも一つはお持ちだろう。筆者には「大衆食堂などに入って、軽々に“冷やし中華”などというべきではない」という名言がそれ。東アジアの歴史を語るのに、授業であれセミナーであれ、マクラにはもってこい。作家・司馬遼太郎の「華」というエッセイの劈頭(へきとう)の一節で、『この国のかたち 三』(文春文庫)で読める。

「中華」とは「宇宙唯一の文明という」字義であり、「意味が重い」のであって、そんな「軽々に」扱っては困る。「華」とは世界観であり、秩序関係を律する「イデオロギー」なのだ。司馬がエッセイでいわんとするのは、以上のようなところである。

今日は「大衆食堂」も少なくなったので、「冷やし中華」といえば、さしずめコンビニの定番食品かもしれない。いずれにしても品名が変わったわけではないので、日本人・日本語の「軽々」な感覚は同じなのだろう。

その「華」「中華」を体現したのが中国であり、朝鮮半島である。とりわけ半島は14世紀の末から、朝鮮王朝が五百年つづいて体制教学はその中華に純化した。自任したのは、「小中華」である。

「華」は虚構か

司馬によれば、そんな半島にとって歴史的に「日本など、えたいが知れない」存在で、「片鱗も華ではなく、“蛮夷”でありつづけた」。そんなイデオロギーの「フィルターを通してしか隣国を見られなくなった」から、韓国人は「いまも日本のことを倭奴(ウェノム)と蔑称しつづけている」。まことに卓抜な観察であって、上の趣旨には、満腔の賛意を表したい。

しかし司馬の所論にすべて賛成できるわけではない。ずいぶんおかしな論点もある。事実説明に勘違いのような誤りもあるし、執筆当時はともかく、いま現在ではあてはまらないところもみえる。