創業から41年。つねにファッションの先端にいるビームス。これまでの経緯や上場しない理由を設楽洋社長に聞いた。

したら・よう●1951年生まれ。慶応義塾大学卒。電通を経て、父・悦三氏が設立したビームスに参画。88年から現職。(撮影:今井康一)

──ビームス1号店はわずか6坪の店でした。

半分以上が倉庫で、商品を見るスペースは3.5坪くらい。僕たちは米国に強いあこがれを抱き、「おしゃれでかっこいいUCLA(米カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の学生の部屋」というイメージの店にした。ファッション感度の高い、とがった商品をそろえた。

当時はモノの情報が今ほど容易には得られなかった。どうやら米国で“ニケ”(NIKE(ナイキ))という運動靴がはやっているらしいといった話を聞いては、それらを探して買い付けていた。

1976年の開業当初は細々とやっていた。だが数年後、原宿の街中が、さまざまな商品のロゴをあしらったトレーナーを着る若者であふれた。特にビームスのトレーナーは人気になった。ロゴトレーナーはUCLAの学生が好んで着ていたもの。僕たちがやってきたことに時代が追いついてきたと実感した。

──その後、ビームスはさまざまな業態を開発し、店舗数は150店規模になりました。

ビームスは事業計画書ありきで店を作るわけではない。そこが通常の小売業と違うところ。「3年後に黒字化」「5年後に10店舗」といった目標は立てない。商品を売るのは現場のスタッフ。彼らが燃え上がらないとモノは売れない。

30年ほど前、僕が子供服を扱おうと言ったら、スタッフから全力で止められた。「とがったビームスに、なぜベビーカーを押すお客が来るのか」とか。東京以外の地方へ出店しようと言ったときも「ビームスは東京だけでいい」など、社長の言うことが通らない。ただ、スタッフの年齢が上がっていったことで、子供服の必要性などは理解してもらえた。