企業には必ず”縁の下の力持ち”的機能が必要だ。たとえば総務部門の”他に属せざる事項”などという、アバウトで微妙な陰影を持つ言葉で示される所掌事項。アヒルの水かき的非公式交渉などもこれに入る。が、この見方もそろそろ変えるべきだ。

戦国時代に豊臣秀長という人物がいた。秀吉の弟で、生涯を秀吉の陰で過ごした。その人生態度は、「苦労は自分が担当し、功績と栄誉はすべて兄・秀吉のもの」というものだった。

秀吉は織田信長の遺志を継いで天下を統一した。具体的には天皇の下に大名は集結し、個々に戦は起こさないということだ。この方針に反する大名は、天皇の命に背く朝敵として、秀吉は「征伐」というドラスティックな言葉を用いて武力討伐をした。四国(長宗我部氏)、九州(島津氏)、小田原(北条氏)などだ。大名個人の名にせず地方の名を挙げているのは、事柄が小さく受け止められるのを避けるため。宣伝マン秀吉の巧妙な戦術だ。

各大名は降伏し、征伐はいずれも成功した。が、降伏させるまでの実戦はすべて秀長が指揮している。秀吉が現地に赴いたのは、相手を呼んでの降伏式のときだけだ。小田原のときは秀長が直前に死んだので、秀吉が指揮した。

もう一人、武田信繁という人物がいる。信玄の弟だ。父の信虎にかわいがられて、父は信玄を廃し信繁に自分の跡を継がせようとした。しかし信繁はこれを蹴り、信玄には「私は弟ではありません。家臣です」と殊勝な“縁の下精神”を示した。それを家訓として自分の家族だけでなく、家臣にも順守させている。99カ条にわたるこの家訓には、1条ごとに出典が明記されているが、すべて古代中国の古典『論語』などが基になっている。

ということは、学殖が深く政治理念が高いので、おそらく王道政治を目指す兄・信玄の政治行動に共感し支持したのだろう。日本人的発想で考えれば、秀長も信繁も滅私奉公を実行した。”よき弟”の典型であって美談の主だ。