【今週の眼】苅谷剛彦 英オックスフォード大学教授
かりや・たけひこ●1955年生まれ。米ノースウェスタン大学大学院博士課程修了、博士(社会学)。東京大学大学院教育学研究科助教授、同教授を経て2008年から現職。著書に『階層化日本と教育危機』『増補 教育の世紀:大衆教育社会の源流』『教育と平等』など。(撮影:尾形文繁)

文部科学省によれば、2020年度から始まる大学入試改革で、英語については英検やTOEFLなどの外部団体の試験に委ねるという。中学・高校で英語を学んでも日本人の多くは英語を話せない。そのため、「読む」「書く」「聞く」に加え、「話す」力もテストする。これら「英語4技能」を測るために、試験を外部化するというのだ。特に話す力の試験を大学が行うのは困難だからという。

前提には、日本人は英語が話せない、それは読解や文法ばかりをテストする受験英語のせいだという常識がある。だから、話す力を受験に組み込めば、英語教育も変わるはずだという期待感が改革を後押しする。グローバル化が進む時代には、オーラルな英語力が必要だという理屈も付け加わる。

そもそもこの常識には問題はないのか。たとえば、受験英語で日本人は、英語は読めるが話せないと言う。これは大きな誤解だ。あえて言うが、大学を出ても、多くの日本人は英語が読めない。英語が読めるとは、文字どおり左から右に文章を訳さずそのまま理解できることを指すからだ。それができなければ、聞き取りもできない。それも、発音の聞き分けの問題ではない。発話の順に日本語に訳さずにそのまま理解できなければ、聞き取ったことにはならないからだ。そのインプットができなければ、英語で考え、それを声に出す(話す)ことも当然できない。

初歩レベルの英会話なら定型のフレーズを覚えれば済む。だが自分の意見を伝える(話す)ためには、訳すのではなく最初から英語で考えなければならない。この力を支えるのは、発音の巧拙よりも、私たちが日本語でやっているように、英語なら英語のまま理解し英語のまま反応する頭の働きだ。

この力をつけるために必須なのが、読む訓練である。それもある程度内容のある文章を、英語のまま理解できるようにする教育だ。入試で測るのではなく、大学に入ってから行うべき英語教育である。