1990年より沖縄県知事を2期8年を務めたほか、沖縄国際平和研究所で基地問題の解決に取り組んだ(撮影:梅谷秀司)

6月12日、沖縄県知事や参議院議員を歴任した大田昌秀氏(琉球大学名誉教授)が逝去した。ちょうどこの日の朝、都内のホテルで懇談した琉球新報の幹部から「大田先生の調子がよくない」という話を聞いたので、見舞いに行く日程を調整していたところだった。

筆者は大田氏とは特別の縁がある。まず、大田氏は沖縄県久米島(那覇から西約100キロメートルに位置する離島)出身で、私の母(佐藤安枝、旧姓・上江洲)とは幼なじみだった。私は子どもの頃から「昌秀兄さんというすごい人がいる。小学校で成績と素行が優秀な児童を選んでいて、1等の賞品が当時、久米島ではめったに目にすることのない大学ノートだったけれど、昌秀兄さんはいつもノートを2冊もらっていた。昌秀兄さんは鉄血勤皇隊にとられて戦争でひどい目に遭った。お母さんの数倍も苦労している(母も14歳で軍属として第62師団・石部隊と行動を共にした)。戦後、一生懸命勉強して、今は琉球大学の先生になっている。お母さんは昌秀兄さんを尊敬している」という話を何度も聞かされた。

大田氏と頻繁に会うようになったのは、筆者が職業作家になってからだ。過去10年に20回くらい対談をした。

外交官時代の筆者は大田氏を、革新系の知事であり、その後は社民党の参議院議員となった左翼と思っていた。しかし現実の大田氏は、マルクス主義はもとより左翼思想の影響がほとんど感じられない自由主義者で、自らの沖縄戦体験に徹底的にこだわる絶対的平和主義者だった。

大田氏は、自らの戦争体験を「平和の哲学」に昇華させた。いかなる状況においても軍事力を行使すべきではないという立場を徹底していた。筆者の場合、元外交官としてソ連(ロシア)と対峙したときの経験、さらに外務本省で主任分析官として米国、ロシア、イスラエルなどのインテリジェンス機関との協力を担当したときの経験からどうしても抜け出すことができず、抑止力や核の均衡については、タカ派的な思考をしてしまう。大田氏は、筆者の日米安保観や地政学的外交戦略論を正面から批判することはせずに、軍事力に依拠しない絶対平和の理想を説いた。

対談後、ホテルのバーや居酒屋で、酒を飲みながら話をすることもよくあった。大田氏は好物の豆腐をつまみにシーバスリーガルの水割り(それもダブルかトリプルの濃いもの)を飲んでいた。そのときの話から印象に残っているものを紹介したい。

第1は、「たらい回し」の話だ。米海兵隊普天間飛行場の移転先として、辺野古の名前が挙がったときだ。当時、大田氏は沖縄県知事を務めていた。知事室を訪ねてきた辺野古の女性たちが大田氏の前で、頭にたらいを載せて回し始めた。そして、「基地をたらい回しにするのか」と詰め寄った。

このときに大田氏は、「人口密度や事故の確率論で基地問題を考えてはいけない、ということを深く自覚した」と言っていた。一人ひとりの生命の価値は等価だ。だから知事として、基地のたらい回しだけは絶対しないと誓ったと大田氏は筆者に述べた。