世間の印象とは裏腹に、「三菱」は緩やかな連帯が基本。「金曜会」も食事会に毛が生えた程度のもの

敗れたのは「三菱」だけではない。「日本的なるもの」も最終的に敗北したといえるだろう。

三菱商事から移って2年目。三菱自動車の新社長に“抜擢”された益子修は社員から質問された。

「ゴーンさんになれますか」

なれない。取引先の半分を切り、購入価格を2割下げるのは、自分の流儀ではない。「人は自分一人で生きているんじゃないんだから」。

益子を指名したのは、三菱重工業会長(当時)の西岡喬だった。リコール隠しが発覚した2004年。絶体絶命の三菱自動車は、「三菱重工の持ち分法会社にする」という西岡の決断によって辛くも救われた。

「私が『うん』と言えば、何万人もの雇用が守れるんだ。働く人々を切り捨てることなどできない」

三菱自動車を救うことによって、三菱グループが守ろうとしたもの。もちろん、三菱ブランドの信用である。同時に、取引先と雇用を守ること。つまり、「日本型経営」を土俵際で支えることだった。

世紀の変わり目のあの頃、日本型経営の代名詞のような大企業が続々、大リストラに踏み切り、ヒトも取引先も放り出した。それを横目に、最後の抵抗が敢行されたのが、12年前の三菱自動車救済劇だった。