渋谷の「生き字引」が語り尽くす「多様性の源流」 東急と西武、2大グループが「激突」した世紀

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アパレルショップの撤退に再開発の加速。若者文化の発信地から“没落”する渋谷の実像に迫る。

昭和32年(1957年)時点の渋谷駅前交差点。現在の西武百貨店のある場所には渋谷松竹が見える(提供:白根記念渋谷区郷土博物館・文学館)

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「エンターテインメントの街」「ファッションの聖地」、そしてIT企業集積地「ビットバレー」としての顔。時代の流れとともに街並みを変化させてきたのが渋谷だ。「多様性」や「雑多感」といった渋谷の特徴はどう形作られていったのか。
1971年から渋谷区の職員として区立図書館などで勤務した後に、現在は外郭団体職員として区政資料コーナーで働く山田剛さん(74)。渋谷の「生き字引」と呼ばれ、街の変遷を見守ってきた山田さんに、渋谷の源流について語ってもらった。 

しのぎ削った五島慶太と堤康次郎

――1940年中頃までの渋谷には「まだ農地が残っていた」と聞きます。

1932年に渋谷区が成立したときには、すでに農地はほとんどなくなっていた。このことは1966年に区が発行した『渋谷区史』に明記されている。明治時代に15区だった東京(当時は東京市)は、1932年に35区体制になる。そのときに増えた区のひとつが渋谷区だった。「渋谷町」「千駄ヶ谷町」「代々幡町」の3町が合併して渋谷区になった。

このころは宅地開発が進められ、特に「道玄坂」の宅地開発では五島慶太の率いる東急グループと堤康次郎を総帥とする西武グループがしのぎを削っていた。ほかにも「円山町」や「百軒店(ひゃっけんだな)」のあたりも「五島慶太 vs. 堤康次郎」の図式で、開発が争われた。

――それ以前は、渋谷駅の誕生が街の発展に寄与したのでしょうか。

さかのぼると、渋谷の発展に最も大きな力になったのは1885年の日本鉄道品川線「渋谷駅」(現在のJR渋谷駅)の開業でしょうね。鉄道会社としては地盤のいいところにつくりたいということで、まずは恵比寿近辺を計画していたが、反対運動が起きてだんだん追いやられ、現在の渋谷駅の位置より200メートルほど恵比寿寄りのところ、今の渋谷警察署が構えるあたりに最初の駅ができた。

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